須田社長ブログ補足版②

前回の記事の続きです。
6月の鈴鹿200キロレースは耐久の前哨戦のため、かなりの数のエントリーがありました。
中でもFⅢクラスは何組かに分けて予選が組まれるほどの盛況ぶり。
小林君も自ら製作したRZ250ベースのマシンを持ち込んできたのですが、このマシンを最初に見たときの印象は「な、なんやこれは? 変態みたいなエンジンやな・・・」でした。
どんなエンジンかというと、RZに乾式クラッチが装着されており、聞くと80年以前のTZのケースなどを流用したとのこと。
このときに某有名ショップのオーナーやメカニックがしげしげとこのマシンを観察しており、後にこの組み合わせはRZ改造の常套手段となるのだが、この時点では恐らく日本で初の試みであったと思われ、当時まだ二十歳そこそこの小僧がこれを作ったのには驚きです。

話が少し後戻りしてしまいました・・・
鈴鹿200キロレースで手ごたえを掴んだ我々は、7月上旬から本番へ向けての最終調整に入り、三台のマシンのライダーの組み合わせも決定しました。

本番まであと2週間を切った最後の練習日・・・ 午前中の走行でその恐怖の現象は起こりました。
当時まだシケインの無かった最終コーナー、全開で駆け下りる私のマシンのフロントが小刻みに震えだしたかと思った次の瞬間、それは一気に増幅しマシンから振り落とされそうになりました。
速度は恐らく180キロ辺り、振られはストレート部分まで続き、なんとか転倒は免れたものの路面に歪な「ハの字」のブラックマークがつくほどの振られ方で、心臓が口から飛び出るかと思うぐらいの恐怖でした。
この様子はピットからも目視できたほどで、見ていたメカニックたちから「よくあれで転ばなかったな~」と声を掛けられました。
そして午後の走行に入るとあとの二台にも同じ現象が起こり始め、同日中に6人のライダー全員がこの現象を体験する事体に・・・
発生状況の特徴としてはコーナー立ち上がりのフロント荷重が抜け気味の時に発生し、振られている最中にびびってアクセルを戻せば更に増幅するといった始末の悪いものでした。
なぜこの現象がこの日に突然のように発生したかというと、路面温度の上昇によるグリップ力の増加、ライダー全員のタイムアップなどによりフロントフォークやステアリングポスト周りにかかる負担が一気に増したことが原因と考えられます。
逆に言えばそれらの部分の絶対的な剛性不足なのですが、時間的にも対策部品やフレーム補強は難しく、更に路面温度上昇が予測される本番に向けて大きな不安材料を残す最後の練習日となりました。

7月末の水曜日、鈴鹿はいよいよ耐久レースウイークに入りました。
三台のマシンを走らせるチームDr須田も必勝の思いを胸に鈴鹿入りです。
チームDr須田の生え抜きの後藤選手以外の5名は全て他チームからの参入で、関東・中部・関西と地域もバラバラ。
それぞれのライダーが自分が普段所属するチームのメカニックやヘルパーを伴っての20名以上の混成チームの出来上がりです。
ピット内は東京弁名古屋弁に関西弁が入り乱れなんとも賑やかです。
総監督はもちろん須田社長、チーフメカはマシン製作に当初より携わり社長と苦労を共にしてきた小林君でした。
このとき小林君はまだ21歳、6名のライダーや他のメカニックの誰よりも若く、私以外のライダーはガラも悪く、その点でも苦労はあったと思います。
問題の振られ対策としては、スタビライザー効果を期待してフロントフェンダーをFRPから鉄に変更し、三叉ロアブリッジを溶接で二枚重ねにするといった、重量増を無視した苦肉の策です。
あとは「振られたらもっと開けろ!」の根性ライディングで対応することに・・・ヽ(^o^)丿  (ToT)/~~~
木・金のフリー走行と公式練習を終えた感想としては、対策は少しは効いてるかな・・・程度(-_-;)
200キロレースとは違い本番では純レーサーのTZ250が相手です。
ところが社長入魂のエンジンのパワーは驚くべきものがありました。
練習段階で解かったことは、80年型のTZ250とはストレートスピードがとんとん。
81年型にはジワジワと離される程度、これなら長丁場の決勝ならじゅうぶんに勝負出来ると感じました。
予選は須田社長の指示もあり少々抑え気味で走ったものの、三台ともが上位で通過することが出来ました。
予選結果を待つ間に、ピットイン→ガスチャージ→ライダー交代の練習を終え、ライダーは翌日の決勝に備えて早めにホテルに引き上げ、メカニックはピットで徹夜の最終調整作業です。

イメージ 1
①スタート直前、横浜から貸し切りバスで駆けつけたドク須田応援ツアーの皆さんにライダー6人でポーズ!
②レース終了直後、暫定1位の報に、コース上で思わずビールを飲み干す須田社長。 右側の白つなぎがK君です。
③月刊モト・ライダーより。 レース序盤のDr須田チーム三台の変態編隊走行、このあとクラッチトラブルが№155を襲います。
④同年11月、Dr須田が新店舗オープン!
⑤月刊モト・チャンプより。 レース終盤、№155がコースレコードを樹立しながらの激走で№125をパスし一周遅れを取り戻す。
⑥ゴール直後。№127に跨る堀ひろ子さんの姿も見えます。
⑦ピット裏のベースキャンプの一こま。

さて、決勝はというと・・・↓を参照してください
http://blogs.yahoo.co.jp/drsudanet/MYBLOG/yblog.html?m=lc&p=1 
あくまで須田社長のブログの補足版でありますので、余談を少々・・・
私が乗った№155(焼入れスペシャル)は3台中最上位で予選を通過したにも関わらず、2時間経過時点でトップの№125から一週遅れでした。
スタート直後から、私とペアを組んだ安達選手の激走により、トップグループに食い込む奮闘振りを見せていましたが、一回目のライダー交代で私が走り出して数週目、突然のクラッチトラブルに見舞われます。
数週はだましだまし走りましたが、症状が酷くなり予定外のピットイン。

原因はスタート前の些細なミスによるものでしたが、丁度ピット奥に引っ込んでいた小林君が三段跳びのような動きで脱兎のごとく私のもとに駆け寄り、症状を訴える私の言葉から一瞬で対処法を判断。
別のメカニックに「チェーンルーブ~!」と叫び、それを受け取るとケース内側のクラッチレリーズ辺りに吹き付けました。
「これでいけるっ!」の小林君の言葉を信じて再スタート、結果的にはチェッカーの午後6時まで症状の再発はありませんでした。
後で考えればこの時の
小林君の判断は実に素晴らしく、別の対処法では恐らく数周で症状が再発していたと思われます。
このトラブルで№155の順位は35位近くに落ち、順調に周回を重ねる№125.№123に一周の差をつけられていましたが、そこから先はほぼ抜きっぱなしの展開で順位を回復、3時間を経過した辺りからは、熱ダレでパワーの落ちてきたTZ軍団を尻目に三台のドク須田GSXは快調を維持、ラスト10分辺りで№155が遂に№125をパスして同一周回に。
終わってみればチームDr須田がFⅢクラス1~3位独占の結果となりました。
三台全てが完走するだけでもかなり難しいと思っていただけに、この結果は出来すぎではないかとさえ思えたほどです。
レース終了後にコース上で缶ビールを飲み干す須田社長の姿が実に印象的でした。
計画スタートからというもの、乏しい資金と設備にもかかわらず、寝る時間を削って正に不眠不休でマシンを作り上げた社長の苦労が一気に報われた瞬間でした。
社長以下20名以上の混成チームの気持ちと情熱が一つになったことによって掴み取った栄冠でした。