須田社長ブログ補足版①

以前の記事で80年前後のレースのことを書きましたが、その中の「81年鈴鹿4時間耐久レース」で私が大変お世話になった横浜の「モーターサイクルドクターSUDAhttp://www.drsuda.co.jp/shop/」の須田社長がご自身でブログを立ち上げられました。http://blogs.yahoo.co.jp/drsudanet/16769724.html 
イメージ 2
長津田駅近くの、まるで夜逃げしたラーメン屋の跡のようなみすぼらしい 質素なことこの上ないバイク店が、乏しい資金や設備の中で、当時脚光を浴びつつあったFⅢマシンを開発、2度目の挑戦で表彰台を独占する快挙を成し遂げ、その後アメリカのボンネビル・ソルトレイクでの市販車による時速300km/hに挑戦するストーリーが中心となっています。
須田社長のブログに私がコメントを入れさせていただいたところ、数日後にお電話をいただき、当時の思い出話に花が咲いたのですが、やはり30年の時の流れ・・・ 更に御歳70歳・・・
さすがの切れ者社長もご記憶がやや曖昧というかあやふやになられておられまして・・・(^^ゞ
そして昨日は例のマフラー職人の小林君から電話が入り・・・ 「社長もけっこう記憶があやふやになってるよな~ あんたは記憶力がいいから、あんたのブログで補足版を書いてあげたら」・・・とのこと。
ま、私の記憶と言ってもあくまでライダー側の記憶であり、社長のそれとは微妙に違いがあるかもしれませんが、あの時同じ空気を吸って同じ時間を共有したのは間違いの無いことなので、出来うる限り正確に当時のことを思い出してみました。

本番の4時間耐久の前哨戦となる鈴鹿200キロレース。須田社長は私と電話で話すまでこのレースのことを完璧に忘れておられました・・・\(◎o◎)/!
社長が不眠不休で作り上げた三台のFⅢマシンが初めて揃い踏みしたレースです。
ライダーはteam・Dr・SUDA生え抜きの後藤選手と、当時「プロダクション・オブ・ゴッドハンド」と呼ばれたチーム基本マスターズの石原選手、そして私。
土曜日の予選は雨模様、ところがタイヤメーカーの手違いでレインタイヤが届かず、手彫りのカットスリックで予選を走る羽目に・・・
びびる私に須田社長が「コーナーは無理しないで、バイクが真っ直ぐになってからアクセル開けりゃいいよ、後ろのほうでも予選さえ通過すりゃ明日にはレインタイヤが届くから」と声をかけてくれました。
アドバイス通りにコーナーは抑え気味で走り、ストレートでマシンのパワーにモノを言わせての走りでどうにか14位で、あとの二台も似たような順位で無事に予選通過で一息つきました。
3分の2以上が予選落ちするこのクラス、タイヤに不安を抱えながらもこの順位につけることができ、このマシンの素性の良さを感じることが出来ました。

イメージ 1

私のマシンは前年の4耐で伝説の女性ライダー堀ひろ子さんが乗り、第一コーナーで転倒炎上したものを修復した「焼き入れ一号車」でした。







翌日の決勝レース。 やはり天候は雨、それも前日より激しくなっています。
無事に届いたレインタイヤを装着されたマシンでスターティンググリッドに並びます。
当時は現在のクラッチスタートとは異なり「押し掛けスタート」
濡れた路面、圧縮比の高いこのマシンの押し掛けに体重の軽い私は失敗し、2回目のプッシュでようやくエンジンに火が入りましたが、第一コーナーへの進入はビリッケツ・・・
雨天のレースでのスタートミスは前走車の巻き上げる水煙で極めて視界が悪く致命的なミスです。
一週目ヘアピン進入は正に団子状態で、それでも徐々に順位をあげ、ラスト2周のバックストレッチで後藤選手をパス、同じエンジンでも体重の軽い私は最高速度で有利なのです。
そしてラストラップのヘアピン侵入でモリワキレーシングの福本選手をパス。
結果は石原選手が流石の2位、私が9位、鈴鹿初レースの後藤選手が11位でした。
石原選手は順当ですが、ホームグランドの筑波と比べて路面のミューが低く、それも雨の鈴鹿初体験で11位の後藤選手には驚きました。
私もスタートの遅れを取り戻し33台を抜いてなんとか入賞しましたが、それもこれもすべてマシンの性能に負うところが大きく、本番の4時間耐久へ向けての手ごたえを掴んだレースでありました。

補足版②に続く・・・