テント村住民の正体

「4本爪」の龍柱を誰のために建てるのか? 揺れる普天間移設 テント村住民の正体は…

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沖縄の海の玄関口・那覇港(那覇市)で、奇妙な石の台座2基が風雨にさらされている。
 計画では、ここに世界遺産首里城正殿前の龍柱(約3メートル)を模した高さ15メートルの巨大な龍柱がそびえ立っているはずだった。
 現沖縄県知事の翁長(おなが)雄志(たけし)が、那覇市長だった平成24年、福建省福州市との友好都市締結30周年記念事業として肝いりで始めた。総事業費は2億6700万円。このうち8割は国の一括交付金を充て市の負担は5300万円に抑える算段だった。翁長は市議会で「龍柱をシンガポールマーライオンに匹敵するようにしたい」と胸を張った。
 那覇市は、市内の業者を通じて福州市の業者に龍柱制作を依頼したが、工期が大幅に延び、26年度末の完成が間に合わないばかりか、総事業費は3億2200万円に跳ね上がった。
 おまけに那覇市は一括交付金の未執行分を次年度に繰り越す手続きをしなかったため、市の負担は2億1900万円と当初の4倍に膨らんだ。
そもそも国民の税金を使って中国の業者に中国産の石材で龍柱を制作させること自体が不見識だが、批判はそこで収まらなかった。
 「龍」は元来、中国皇帝の権力の象徴。「5本爪」の龍の図柄は中国皇帝のみが使用でき、朝鮮など中国の冊封体制に入った周辺諸国は「4本爪」を用いてきた歴史がある。
 琉球王朝冊封を受け、首里城の龍柱は「4本爪」。そして今回の龍柱も「4本爪」だった。
 那覇港の龍柱から大通りが延び、沖縄県庁と那覇市役所に突き当たる。大通り沿いはかつて久米村(くにんだ)といわれ、明朝の中国人が暮らした地域。沿道には中国庭園「福州園」(4年開園)や、翁長が25年に完成させた「久米至聖廟(びょう)」(久米孔子廟)が並ぶ。
 海の玄関口に「4本爪」の龍柱を立て、県庁までの大通りに中国庭園や孔子廟を整備し、一体誰をお迎えするつもりなのか-。
「海を殺すな」「沖縄を本土の捨て石にするな!」
 砂浜を隔てるキャンプ・シュワブのフェンスには移設反対派の横断幕。キャンプ・シュワブのゲート前の「テント村」には「退職教職員組合」「日本共産党」の幟(のぼり)がはためく。
 「安倍(晋三首相)は憲法を壊し、戦争しようとしている。辺野古に基地を作らせてはならない」
 テント村の“住民”の50歳代の男性はこう力説した。聞けば東京都出身だが、現在は名護市に住民票を移したという。テント内には「NEWS23」(TBS)と「報道ステーション」(テレビ朝日)の連絡先が張り出してあった。
 辺野古地区の住民の大半は条件付きで移設受け入れを表明しており、テント村を快く思っていない。24年3月にはテント村撤去を求めて地区住民763人分の署名を名護市長の稲嶺進に提出した。ある女性はまゆをひそめた。
「お年寄り数人のほかはテント村に地元の人はいません。本土(県外)や中南部那覇市など)から来た人ばかり。それなのに『地元が反対してる』と報道されて迷惑してます。私たちは基地と共存して暮らしてきたんですから。でも本音を言うのは本当に難しい」
 集落入り口には「WELCOME APPLETOWN」の看板。米統治下の昭和30年代、沖縄民政府土地課長のアップル中佐が中心となり開発したことからこの名がついた。
 そもそもキャンプ・シュワブは翁長が強調するような「銃剣とブルドーザー」で強制接収された基地ではない。地元の久志村(当時)の村長が村おこしとして誘致した。商売や軍用地料収入で恩恵を受ける住民もいる。反基地は決して「県民の総意」ではない。
   × × ×
 平成8年2月24日、米サンタモニカ。第82、83代首相の橋本龍太郎は、第42代米大統領ビル・クリントンと初会談で、普天間飛行場の返還を唐突に切り出した。一種の賭けだったが、クリントンは「沖縄の人々の感情を考えながら最善を尽くす」と明言した。「不可能」と言われた普天間移設が動き出した瞬間だった。
背景には、7年9月に12歳の少女が米兵3人に暴行された事件がある。これに米統治時代からくすぶる反米感情が爆発し、10月21日に宜野湾市で大規模な県民総決起大会が開かれた。
 日米両政府は11月、基地の整理・縮小に向け、沖縄特別行動委員会(SACO)を発足させた。米政府は1991(平成3)年にフィリピンのスービック海軍基地クラーク空軍基地を返還した。沖縄で連鎖反応を起こすことだけは避けたかったとみられる。
 橋本-クリントン会談後、話は急ピッチで進んだ。橋本は8年4月12日、駐日大使のウォルター・モンデールと会談し、普天間飛行場を5~7年以内に全面返還することで合意した。モンデールは記者会見で「私たちは沖縄のよき隣人でありたい」と語った。
 SACOは12月、普天間飛行場の全面返還に加え、米軍区域面積の21%(約5千万平方メートル)の返還を盛り込んだ最終報告をまとめた。沖縄県民も多くは評価し、揺らぎかけた日米同盟は再び固まった。
普天間飛行場をどこに移設するか。「県内」が米側の返還条件だった。当初は空軍嘉手納基地(嘉手納町など)と統合する案もあったが、米国が難色を示したこともあり頓挫した。
 政府は9年11月5日、キャンプ・シュワブ内の辺野古沖に海上ヘリポートを建設する案をまとめ地元に提示した。これを受け、名護市は12月21日に住民投票を実施したが、反対が賛成をわずかに上回った。
 3日後の24日、名護市長の比嘉鉄也は上京し、橋本を訪ねた。
 「私はここで移設を容認します。その代わり腹を切ります」
 比嘉はこう語ると琉歌を紙にしたためた。
 ●(=歌記号)義理んむすからん ありん捨らららん 思案てる橋の 渡りぐりしや
 運命の分かれ道の思案橋を渡るか渡るまいか悩んだが、やはり渡らなねばならぬ-の意。橋本は涙を浮かべ、深々と頭を下げた。
 比嘉は記者会見で「名護市が負担を受け入れることで普天間の危険が解消されるなら批判はあってもあえてその道を選びました」と語り、約束通り辞任した
自民党政権と沖縄の蜜月はその後も続いた。第84代首相の小渕恵三は11年12月、「普天間飛行場移設に係る政府方針」を閣議決定した。12年度から10年間で1千億円を従来の沖縄振興とは別枠で北部地域向けに確保することを約束した。
 12年の主要国首脳会議(サミット)の開催地も名護市に決まった。那覇市では、米軍住宅跡地に大型ショッピングセンターなどが並ぶ「那覇新都心」が完成し、空港と市街地はモノレールで結ばれた。名護市でも16年に国立沖縄工業高専が開校、17年には名護市と古宇利島(今帰仁(なきじん)村)を結ぶ古宇利大橋も完成した。
 沖縄返還後、政府が投じた沖縄振興予算は累計11兆円に及ぶ。SACO合意後はさらに増えた。地元建設会社の幹部はこう語った。
 「振興策のおかげで沖縄は豊かになりました。建設業界も恩恵を享受している。本土の山間部を見ると沖縄の山間部より開発が遅れている。あんな所に住む人が懸命に働き、納めた税金がこっちで使われると思うと気の毒に思いますよ」
ただ、振興策には思わぬ副作用があった。建設会社幹部は続けた。
 「もともと沖縄政財界には基地返還を取引材料に予算を要求しようなどという発想はなかった。だが、SACOの合意以降そういうケースが増えた…」
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 振興策と並行して移設計画も着実に進み、14年7月、政府は辺野古沖を埋め立て代替施設を建設する計画を決定。18年4月には住宅上空を飛行しないようV字滑走路に計画変更した。
 ところが、とんでもない卓袱(ちゃぶ)台返しがあった。
 21年8月末の衆院選自民党は大敗を喫し、移設先について「最低でも県外、できれば国外」と唱えた民主党鳩山由紀夫が首相に就任したのだ。
 鳩山は「腹案がある」と繰り返したが、そんなものはなかった。迷走のあげく鳩山は22年5月4日、沖縄で県知事の仲井真(なかいま)弘多(ひろかず)と会談、「学べば学ぶほど(日米同盟が)抑止力を維持していることが分かった」と語り、県外移設を断念し、従来通り、辺野古への移設を進める考えを伝えた。
鳩山の迷走により、反米・反基地運動は勢いづき、移設容認派は分裂した。
 26年11月の県知事選では、移設容認から反対に転じた翁長が、仲井真を破って初当選を果たした。翁長は元自民党県議だが、共産、社民両党など支援を受けて勝利だった。
 当選後の翁長は強硬に移設反対を打ち出し、政府と和解する兆しはない。かつて職を賭して移設を容認した比嘉はこう語った。
 「当事者でない私がいろいろ言うべきではない。ただ1つだけ言えるのは、あの時の決断は決して間違っていなかったということです」

沖縄の民意や総意・・・ ほんまかいや・・・(--〆)

市民団体は沖縄県民の本音聞け! フェンスクリーン作戦

辺野古区商工社交業組合の陳情書
http://togetter.com/li/839484
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