東條英機とユダヤ人

今夜のテレビ番組でユダヤ人難民を「命のビザ」で救っ杉原千畝のことをやってた。
近年はこのことがテレビなどでも多く取上げられたせいか、
杉原千畝のことは広く知られるようになり、「日本のシンドラー」などとも称されている。
ならば、東条英機などももっと正しく評価されるべきと考えるが、戦前戦中の日本、大日本帝国的なもの全てに病的なまでに拒絶反応を示す左巻きマスコミや、自分の頭で考えることをしない左翼かぶれの人たちはこの事実を認めたがらない。
何が何でも彼らを「あの誤った戦争に日本を導いた極悪人」としてのレッテルを貼りつづけたいわけである。
これも自虐史観という病気に罹った戦後日本の症例のひとつである。
私は戦前戦中の日本が全て正しかったとは思わないが、現在の、そして今後の日本をどのような方向に持って行くかは、このようなこともしっかりと公平に再検証する必要があると思う。
すなわち、大日本帝国A級戦犯の名誉回復は、日本人が誇りを取り戻すにおいての必須条件と考える。

オトポール事件
1938年3月、満州国と国境を接したソ連領のオトポールに、ドイツの迫害から逃れてきたおよそ2万人のユダヤ人難民が、極寒の吹雪の中で立往生し凍死しようとしていた。
これらのユダヤ人たちは、ソ連政府によってビロビジャンに強制入植させられた人たちで、過酷なビロビジャンから逃れ、満州国を経由して上海へ脱出しようと考え、オトポールまで逃れてきたのであるが、ドイツに遠慮した満州国が入国を拒否したため、極寒の中、食糧がつき凍死寸前の難民たちは前へ進むこともできず、そうかといって退くこともできなかったのである。
当時、満州国ハルビン特務機関長を務めていた樋口季一郎のところに、ハルビンユダヤ人協会会長・カウフマン博士が飛んできて、同胞の窮状を訴えた。 しかし、満州国外務部(外務省)を飛び越えて、独断でユダヤ人を受け入れるのは、明らかな職務権限逸脱であった。
が、樋口季一郎は自分の判断で、ユダヤ難民全員を受け入れることを認めた。
この、樋口季一郎少将のユダヤ人救出に 「まさに 八紘一宇(はっこういちう) である」 として許可を出し外務部とドイツを説き伏せたのは、東條英機 関東軍参謀長(当時)。
ドイツ外務省は日本政府に対し、大量のユダヤ人難民を満州国へ入れたことへの強硬な抗議を行った。 この抗議は東京から新京の関東軍司令部にすぐ伝えられたが、東條英機中将(当時)は、「当然なる人道上の配慮によって行ったものだ」として一蹴したのである。
救援のための列車を動かしたのは、当時の満鉄総裁 松岡洋右 (戦後、A級戦犯として公判中に病死) の判断であった。
日本のシンドラーとして有名になった杉原千畝が「生命のビザ」を6,000枚発行する2年前に、樋口季一郎少将と松岡洋右東條英機 によってユダヤ難民が救われていた。
この流れがあったからこそ杉原千畝はビザの発行ができたわけです。

三原じゅんこ議員の発言でやり玉に挙げられた「八紘一宇」も、決して左翼が言うような侵略のスローガンなどではなく、ヒューマニズムに溢れた崇高な精神であったわけです。