歴史の流れ・・・東京からバンドンへ
西村眞悟の時事通信より転載
統一地方選挙中に、インドネシアでバンドン会議六十周年の国際会議があった。
その時、いろいろな所に行っていて書き込めないまま会議は終わってしまったが、やはり書いておきたい。
それは、日本人がもつべき、「歴史の流れ」に関する認識(感覚)のことである。
この認識(感覚)即ち歴史観は、
日本人こそ持ちうるものであり、従って、
日本人こそ持っていなければならないものである。
何故なら、我が国周辺の支那では、
歴史は、その場限りの権力に奉仕するプロパガンダであり、
同じく隣の朝鮮では、歴史は、妄想でありファンタジーに過ぎないのであり、
これらの近隣が歴史を道具として仕掛ける対日非難宣伝には、
動かし難い歴史の流れを背景にして対処することが肝要であるからだ。
歴史は大河の如き流れである。
大河がそうであるように、その河の一部では逆流もありよどみもある。しかし、全体として悠然と流れている。
そこでこの度のインドネシアにおけるバンドン会議六十周年であるが、
六十年前の昭和三十年(一九五五年)、インドネシアのバンドンにおいて、
インドネシアのスカルノ大統領、インドのネール首相、エジプトのナセル首相ら、中共や我が国を含む二十九カ国が参加したAA会議(アジアアフリカ会議)つまりバンドン会議は、
反帝国主義、反植民地主義そして民族自決を掲げた会議であったが、それは、
昭和十八年(一九四三年)の東京における大東亜会議の大東亜共同宣言に由来し、
大東亜会議は、明治三十八年(一九〇五年)の我が国の日露戦争勝利に由来する。
即ち、二十世紀におけるアジアアフリカの有色人種の植民地からの独立と民族自決そして人種差別撤廃の動きは、アジアの東において、明治維新によって台頭した我が国が創りだした大きな流れなのだ。
一九〇五年、近代化を開始して三十年しかたっていないアジアの有色人種の国の「ちっぽけな、これまでだれからも軽蔑されていた日本」(レーニンの表現)が、ヨーロッパ最強最大の陸軍国ロシアを打倒したことは、
人類の二十世紀の流れを決定した。
それから五十年後の一九五五年、バンドンに集まったスカルノ、ネール、ナセル、周恩来ら、アジアアフリカの二十九カ国の首脳は、総て、日露戦争の衝撃から生まれてきた首脳達である。
そして一九四二年二月十五日の、
山下奉文中将率いる帝国陸軍第二十五軍によるシンガポール陥落は、ウインストン・チャーチル英国首相が認めたように「英国軍の歴史上最悪の惨事であり、最大の降伏」であった。即ち、日本は、数百年にわたる白人のアジアアフリカに対する植民地支配の膨張を、ここで切断して押し返した。
このようにしてアジアから白人の軍隊を駆逐した我が国は、翌年の一九四三年、東京で大東亜会議を開き、
諸民族の多様性の尊重と諸民族の共存共栄、そして人種差別撤廃を掲げた大東亜共同宣言を発する。
この宣言が、大東亜戦争を遂行する我が国の理念・精神・目的である。
ここから、インド、アセアン諸国を始め、アジアアフリカの独立が具体的に動き出す。
現在のアメリカのオバマ大統領はこの流れのなかから誕生した黒人大統領なのである。
残念ながら、我が国は大東亜戦争の「戦闘」には敗北した。
しかし、大東亜戦争の「理念・精神・目的」では勝利したのだ。
では、一九五五年のバンドン会議でも二〇一五年の六十周年会議でも、
大きな顔をして出席していた周恩来や習近平の中国共産党(中共)は如何に位置付けられるのか。
それは、我が国が動かし始めた「歴史の流れ」のなかで、
諸民族の幸せの為に最も警戒して排除すべき
邪悪な暗黒にして二十世紀の惨害であるコミンテルン(国際共産主義運動)と
伝統的支那の汚染すなわちおぞましい腐敗と物欲を象徴するものである。
一九五五年のバンドン会議は、二回目は開催されなかった。
何故なら、第一回バンドン会議で国際紛争の平和的解決を謳ったにもかかわらず、
翌年、中印国境紛争が始まったからである。
同時に中共はウイグルやチベットに対する残虐な支配を強化し、
共産党独裁を強化して自国人民を粛正して大量殺戮を続けていた。
その上で、バンドン会議から十年後の一九六五年九月三十日、
周恩来は容共的なインドネシアのスカルノのもとで増殖させたインドネシア共産党に軍事クーデターを指示し、一挙にインドネシアを共産化しようとした。
このクーデターが成功すれば、翌日の十月一日、
周恩来は天安門で高らかにインドネシア共産化成功を宣言したはずだ。
しかし、青年時代にペタ(インドネシア独立義勇軍)で日本軍に軍事訓練を受けて育った
四十二歳のスハルト少将が、
孤立無援のなかで敢然と立ち上がってインドネシア共産党のクーデターを粉砕した。
これが、アジアの運命を変え、アセアン誕生の切っ掛けとなった九・三〇事件である。
仮に、周恩来の指示通り、インドネシア共産化が実現しておれば、
赤道下の東西五千キロに拡がる人口二億の共産インドネシアと北の中共に挟まれた現在のアセアン諸国は、
総てドミノ現象を起こして共産化され、現在の繁栄などあり得なかった。
反共を掲げて共産クーデターを打倒したスハルトは、インドネシアの大統領となり、
直ちに日本に住むペタの教官であった土屋大尉に電話をかけて「教官殿、大統領になりました」と報告し、
そして、中共(コミンテルン)の仕掛ける共産化に対抗して、
自由主義に基づく繁栄を目指すアセアン結成を呼びかける。
このように、中共は、明らかに最初からバンドン会議の精神に反する不逞の参加者であった。
そして、現在も、中共は、
自国人民を弾圧して自由を与えず、チベットやウイグルで暴虐の限りを尽くし、
共産党幹部は肉欲物欲の権化であり、
国外においては、ベトナム、フィリピンの領土領海を武力で簒奪し我が国固有の領土の強奪を狙っている。
このように、中共は、昔から今まで、誕生から死に至るまで、変わることのない、
バンドン会議の精神に反する
「悪の権化」、ダースべーダー!である。
このような存在が、物欲に任せて肥大化してぶくぶく肥り、
べっぴんの嫁を連れて世界をウロウロしたとしても、
諸民族の明日の流れになりうるはずがない。
いずれ、我が国の創りだした大河のなかに、ゴミとして消え去るであろう。
統一地方選挙中に、インドネシアでバンドン会議六十周年の国際会議があった。
その時、いろいろな所に行っていて書き込めないまま会議は終わってしまったが、やはり書いておきたい。
それは、日本人がもつべき、「歴史の流れ」に関する認識(感覚)のことである。
この認識(感覚)即ち歴史観は、
日本人こそ持ちうるものであり、従って、
日本人こそ持っていなければならないものである。
何故なら、我が国周辺の支那では、
歴史は、その場限りの権力に奉仕するプロパガンダであり、
同じく隣の朝鮮では、歴史は、妄想でありファンタジーに過ぎないのであり、
これらの近隣が歴史を道具として仕掛ける対日非難宣伝には、
動かし難い歴史の流れを背景にして対処することが肝要であるからだ。
歴史は大河の如き流れである。
大河がそうであるように、その河の一部では逆流もありよどみもある。しかし、全体として悠然と流れている。
そこでこの度のインドネシアにおけるバンドン会議六十周年であるが、
六十年前の昭和三十年(一九五五年)、インドネシアのバンドンにおいて、
インドネシアのスカルノ大統領、インドのネール首相、エジプトのナセル首相ら、中共や我が国を含む二十九カ国が参加したAA会議(アジアアフリカ会議)つまりバンドン会議は、
反帝国主義、反植民地主義そして民族自決を掲げた会議であったが、それは、
昭和十八年(一九四三年)の東京における大東亜会議の大東亜共同宣言に由来し、
大東亜会議は、明治三十八年(一九〇五年)の我が国の日露戦争勝利に由来する。
即ち、二十世紀におけるアジアアフリカの有色人種の植民地からの独立と民族自決そして人種差別撤廃の動きは、アジアの東において、明治維新によって台頭した我が国が創りだした大きな流れなのだ。
一九〇五年、近代化を開始して三十年しかたっていないアジアの有色人種の国の「ちっぽけな、これまでだれからも軽蔑されていた日本」(レーニンの表現)が、ヨーロッパ最強最大の陸軍国ロシアを打倒したことは、
人類の二十世紀の流れを決定した。
それから五十年後の一九五五年、バンドンに集まったスカルノ、ネール、ナセル、周恩来ら、アジアアフリカの二十九カ国の首脳は、総て、日露戦争の衝撃から生まれてきた首脳達である。
そして一九四二年二月十五日の、
山下奉文中将率いる帝国陸軍第二十五軍によるシンガポール陥落は、ウインストン・チャーチル英国首相が認めたように「英国軍の歴史上最悪の惨事であり、最大の降伏」であった。即ち、日本は、数百年にわたる白人のアジアアフリカに対する植民地支配の膨張を、ここで切断して押し返した。
このようにしてアジアから白人の軍隊を駆逐した我が国は、翌年の一九四三年、東京で大東亜会議を開き、
諸民族の多様性の尊重と諸民族の共存共栄、そして人種差別撤廃を掲げた大東亜共同宣言を発する。
この宣言が、大東亜戦争を遂行する我が国の理念・精神・目的である。
ここから、インド、アセアン諸国を始め、アジアアフリカの独立が具体的に動き出す。
現在のアメリカのオバマ大統領はこの流れのなかから誕生した黒人大統領なのである。
残念ながら、我が国は大東亜戦争の「戦闘」には敗北した。
しかし、大東亜戦争の「理念・精神・目的」では勝利したのだ。
では、一九五五年のバンドン会議でも二〇一五年の六十周年会議でも、
大きな顔をして出席していた周恩来や習近平の中国共産党(中共)は如何に位置付けられるのか。
それは、我が国が動かし始めた「歴史の流れ」のなかで、
諸民族の幸せの為に最も警戒して排除すべき
邪悪な暗黒にして二十世紀の惨害であるコミンテルン(国際共産主義運動)と
伝統的支那の汚染すなわちおぞましい腐敗と物欲を象徴するものである。
一九五五年のバンドン会議は、二回目は開催されなかった。
何故なら、第一回バンドン会議で国際紛争の平和的解決を謳ったにもかかわらず、
翌年、中印国境紛争が始まったからである。
同時に中共はウイグルやチベットに対する残虐な支配を強化し、
共産党独裁を強化して自国人民を粛正して大量殺戮を続けていた。
その上で、バンドン会議から十年後の一九六五年九月三十日、
周恩来は容共的なインドネシアのスカルノのもとで増殖させたインドネシア共産党に軍事クーデターを指示し、一挙にインドネシアを共産化しようとした。
このクーデターが成功すれば、翌日の十月一日、
周恩来は天安門で高らかにインドネシア共産化成功を宣言したはずだ。
しかし、青年時代にペタ(インドネシア独立義勇軍)で日本軍に軍事訓練を受けて育った
四十二歳のスハルト少将が、
孤立無援のなかで敢然と立ち上がってインドネシア共産党のクーデターを粉砕した。
これが、アジアの運命を変え、アセアン誕生の切っ掛けとなった九・三〇事件である。
仮に、周恩来の指示通り、インドネシア共産化が実現しておれば、
赤道下の東西五千キロに拡がる人口二億の共産インドネシアと北の中共に挟まれた現在のアセアン諸国は、
総てドミノ現象を起こして共産化され、現在の繁栄などあり得なかった。
反共を掲げて共産クーデターを打倒したスハルトは、インドネシアの大統領となり、
直ちに日本に住むペタの教官であった土屋大尉に電話をかけて「教官殿、大統領になりました」と報告し、
そして、中共(コミンテルン)の仕掛ける共産化に対抗して、
自由主義に基づく繁栄を目指すアセアン結成を呼びかける。
このように、中共は、明らかに最初からバンドン会議の精神に反する不逞の参加者であった。
そして、現在も、中共は、
自国人民を弾圧して自由を与えず、チベットやウイグルで暴虐の限りを尽くし、
共産党幹部は肉欲物欲の権化であり、
国外においては、ベトナム、フィリピンの領土領海を武力で簒奪し我が国固有の領土の強奪を狙っている。
このように、中共は、昔から今まで、誕生から死に至るまで、変わることのない、
バンドン会議の精神に反する
「悪の権化」、ダースべーダー!である。
このような存在が、物欲に任せて肥大化してぶくぶく肥り、
べっぴんの嫁を連れて世界をウロウロしたとしても、
諸民族の明日の流れになりうるはずがない。
いずれ、我が国の創りだした大河のなかに、ゴミとして消え去るであろう。