母の郷里へ①

先週末から母の郷里の奄美大島へ行ってきました。
目的は、先月の上旬に天寿を全うした母の遺骨を、故郷の海に散骨する為でした。

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奄美大島は鹿児島県に属し、九州本土と沖縄の中間に位置します。
赤丸のところが母の生まれ故郷です。
かつては鰹漁で栄え、また帝国陸海軍も駐屯していたため、けっこう大きな集落だったのですが、現在は戸数も50足らず、人口は50数人といった限界集落です。

集落の皆さんのご厚意により、公民館で母の『お別れ会』を開かせていただき、多くの方にご参加いただきました。
その後、母が少女時代に駆け回ったであろう、白砂の「池堂の浜」にて散骨式を行いました。
母の魂は、集落の人々に見送られ、生まれ育ったこの村の浜辺から旅立っていきました。

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『お別れ会』終了後に母の通った小学校を訪ねました。
20年以上前に廃校なっていますが、校庭の栴檀の木は健在です。
多くの子供たちを見守ってきたであろうこの木も、母が通っていた80年ほど前は幹回りが20センチ足らずの幼木だったと集落の方が教えてくれました。

集落の外れには戦跡が点在しています。
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大島海峡を通過する敵艦を監視するために設けられた観測所です。

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建物裏側の入り口部分です。

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内部の監視窓上の壁には海峡にある島の名前や距離が克明に記されています。
※これは復元したものではなく、当時のままとのことで、その保存状態の良さには驚きです。

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観測所からは村のシンボルでもある『三連立神』を見下ろす形になります。

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レンズを少し左に振ると母が生まれ育った集落が見えます。

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観測所から300メートルほど坂道を下った山の中腹に戦闘指揮所跡が残っています。
観測所からの連絡をここで受けて、各砲台に支持を与えていたようです。

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弾薬庫の跡とのことです。 ものすごく分厚いコンクリートでできており、建造から70年以上、そして台風の通り道にあるこの島に放置されてきたにもかかわらず、基本部分はびくともしていません。

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弾薬庫の中へ入ってみました。
ストロボを焚いてるのでこのように見えていますが、実際にはおもいっきり真っ暗で、コウモリがいっぱい居ました。
次回は懐中電灯を持参してもっと奥の方まで探検してみます。

この戦跡群は、戦後も全く手つかずのまま放置され、集落そのものが奄美大島本当の西端でもあり、交通の便が極めて悪かったために観光用としても利用されていないために、ほぼ当時のままの姿をとどめています。

母の郷里へ②に続く・・・・・かも?