母の郷里

私の母の郷里は鹿児島県の奄美大島です。
九州本土と沖縄の中間に位置する離島で、母はその本島の西の端、現在の瀬戸内町の西古見という集落で生まれ、幼少期を過ごしました。
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印のあるところが西古見で、道路もここまでです。

その後は警察官であった父親の転勤にともない、中国大連に移り、就職で大阪へ、そこで私の父と知り合い、間に太平洋戦争をはさんだ後、父の復員によって結婚しその10年後に私が産まれました。

数年前のことですが、母も高齢になりかなり足腰が弱ってきまして、また、西古見に住む母の妹も病気がちの状態となり、兄と「ひょっとしたらこれが最後の里帰りになるやもしれん、なんとか俺らも時間を作って里帰りに同行したろや」と相談がまとまりました。
本当なら一緒に飛行機で行く予定やったんですが、私たちの仕事や、帰りに大分の親戚宅へ寄るなどの都合で、お袋だけ一足先に空路で奄美へ、私たちはそれを車で追いかけ、鹿児島からフェリーで奄美へといったスタイルになりました。
で、今回の記事はその時に撮った母の郷里の奄美大島の画像が中心となります。

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奄美群島での鰹漁発祥の地として栄えた西古見集落ですが、現在は戸数49戸、住民50余名と、まさに限界集落となっており、母が通った西古見小中学校も今は廃校となり、校庭の栴檀の木が時の流れを見つめています。

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集落には奄美大島でも数少なくなった「珊瑚の石垣」が残っています。

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西古見のシンボル「三連立ち神」です。 この立ち神の向こうに夕陽が沈む時は正に感動もんです。

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叔母宅の庭に咲いているブーゲンビリアです。

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集落の近くには半野生のヤギの姿も・・・

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集落の外れには鰹漁の遭難事故の犠牲者を祀る慰霊碑があり、私の曽祖父の名前もあります。


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私たちが帰るとき、集落の人たちが総出で見送ってくれ、最終的にはこの3倍ぐらいの人数になり、母が一人一人と別れを惜しむため、走り出すまでに1時間以上を擁しました。^_^;

私自身がこの地を最初に訪れたのは小学校2年生の時、当時はまだ空港も無く、30年ぶりの里帰りとなる母に連れられて関西から寝台車で鹿児島まで行き、そこから一昼夜船に揺られて瀬戸内町の古仁屋という港に着きました。
で、そこからがまた大変で、当時は集落までの道路が無かったため、ポンポン船に乗り換え、途中のいくつかの集落を経由しながら2時間の船旅でようやく到着します。
当時、本土では高級果実であったバナナや、缶詰でしか食べたことのないパイナップルがそこら中に有り、コバルトブルーの海には珊瑚が群生し、その間を色鮮やかな魚が群れ泳いでいました。

この旅はやはり私の予測通り、母にとっての最期の里帰りとなってしまいました。
翌年母が脳梗塞で倒れ、叔母もまたその翌年に急逝ししました。
今思うと、あの時に感じた胸騒ぎで、柄にもなく「元気なうちに親孝行というか、若い頃心配かけた罪滅ぼしをしとかなあかんな・・・」と思い、無理やり時間を作っての強行軍の旅でしたが、これが私にとっても母との最期の旅となりました。



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で、どこへ行ってもウナギを釣りたい私たち兄弟は、短い滞在期間でも集落の外れでポイント探索です。
家内はハブが怖いのか、竿立てを持って武装しています。ヽ(^o^)丿

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なんと! 真昼間から人前を堂々と泳ぐウナギを家内が発見!  

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夜になってから出直して釣り上げたのがこの2匹。
ジャポニカ種ではなくアンギラ・マルモラータ種、つまりオオウナギでした。ヽ(^o^)丿

奄美大島出身の中孝介です。

中孝介 花