COWRA

今回は前の「オーストラリアン・サファリ」の続編的な記事ですが、内容が少し重く、やはり古い話なのでカテゴリーを「追憶」にします。

89年のオーストラリアン・サファリ初挑戦から3年後、私は再びシドニー空港に降り立った。
今回はライダー5名、メカニックとマネージャー2名の合計7名での参戦となる。
前回はシドニーのショップにラリーマシンの製作を手配して、オージーのええかげんさのお陰でエライ目に遭ったので、今回は日本でマシン製作&シェイクダウンテストも終えて、予め船便で送っておいた。
実は前回の参戦時にマシンのシェイクダウンテストを兼ねて、是非とも訪ねてみたい場所があった。
それが今回ご紹介するCOWRA(カウラ)です。 
COWRAはシドニーから320キロほど、ブルーマウンテン山脈の西、オーストラリア内陸部特有の荒涼とした原野の中にある田舎町の名前である。

太平洋戦争中の1944年、この地には捕虜収容所が在り、ニューギニア戦線などで捕らえられた日本人捕虜が多く収容されていました。
この収容所で大脱走事件が発生、生きるためではなく「死ぬため」の脱走を敢行した日本兵231名、オーストラリア兵4名が命を落としました。
現在は広大な敷地に「戦争墓地」が設けられ、現地の人たちの厚意で彼らは手厚く葬られております。
これまでこの事実は日本では殆ど知られることがなかったのですが、今年の7月に日テレ系でドラマ化されたのでご存知の方もおられると思います。
番組や事件の詳しい内容は http://www.ntv.co.jp/cowra/
をご覧になっていただくことにしてここでは割愛させていただきます。

なぜ私がCOWRAを訪ねたかったかというと、「平和」があるからこそ私達のようにラリーにしろ他のスポーツにしろ、勿論ケアンズゴールドコーストでのバカンスにしろ可能なわけです。
しかし50年前には日本とこの国とは戦争状態にあり、自らの意思とは裏腹に多くの日本の若者がこの地に連行され、そして命を落とした事実を知ったときから、「是非とも訪ねてみたい、せめて懐かしい日本の水を供えたい」との思いが募ったのです。

レーススタートの1週間前、我々はシドニーの宿舎から一路COWRAを目指して走りました。
道中マシンの細部のセッティングなどをしながらだったので到着が日没後になり、モーテルに宿泊。
翌朝、まだ明けやらぬうちに乳白色の濃霧の中を町から数キロ離れた場所にある「戦争墓地」を目指しました。

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COWRA戦争墓地の入り口。

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日本人慰霊碑に「六甲のおいしい水」と「南アルプスの天然水」をかける。

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今回のメンバーの一人、本職は京都の僧侶! 

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手入れの行き届いた芝生に日本兵の墓碑が並ぶ。
大半が偽名である・・・・

今回の記事は私にしては少し重い内容となってしまいました。
オーストラリアは観光のイメージが強い国ですが、我が国との間にはこのような悲しい歴史もあったことをお伝えしたくて今回はちょいとキャラに合わない内容ですが敢えて記事にさせていただきました。