西村眞悟の時事通信

会津からの連想

平成27年5月25日(月)
 本年も、猪苗代の高士、まことに高士、野崎豊ドクターに招かれて、
 二十二日、猪苗代湖畔のホテルで田母神俊雄航空幕僚長とともに講演した。
 
 翌二十三日、野崎ドクターの薦めで会津若松鶴ヶ城近くの阿弥陀寺に参った。
 途中、猪苗代から会津に入るところにある戸の口の古戦場跡に佇み、
 ここから自決した飯盛山までの山野に、
 埋葬を禁じられて点々と横たわる白虎隊や会津藩士の野晒しにされた遺体の様を思った。
 彼らの戦死は、八月である。遺体はすぐに傷んだであろう。
 心を痛めた村人は、顔も身元も分からなくなった戦死者の遺体を一カ所に集めて埋めた。
 山中には、所々に、「戦死六人墓」とか「戦死十六人墓」と刻まれた古い墓が山の斜面に傾いて立っている。

 鶴ヶ城下の会津市街地では、明治元年八月から翌二年の二月まで、
 戦死した会津藩士やその婦人や家族の遺体は、新政府軍の命により、触れることも許されずに放置された。
 幾度かの嘆願の後、千三百余の遺体(遺骨)が阿弥陀寺に集められて埋葬された。
 彼らは今、阿弥陀寺の二メートルほどの石柱の下に葬られている。

 学生時代、大文字山麓の学生寮に住んでいた私は、
 昼間でも深夜でも、歩き回る(徘徊する)ときは、
 近くの黒谷にある四百名ほどの会津藩士の墓の前を歩いた。
 
 彼らは、京都守護職となって京都に進駐した会津藩松平容保随行して京都に来て、
 禁門の変で御所を守って死んだ者達である。
 京都で死んだ会津藩士は、それぞれ名を刻まれた墓石の下に葬られている。
 しかし、郷里の会津で死んだ会津藩士と家族は、
 あの時、御所に大砲を撃ち込んで攻めてきた長州によって埋葬を禁じられ、
 腐乱し骨になるまで放置され、
 名も顔も分からなくなってから一つの石の下に集めて埋められている。

 戦った相手の遺体を家族も含めて埋葬を禁じて放置させ、犬やカラスのついばむにまかせて辱める。
 ここには武士道のかけらもない。
 これを行えた官軍とは、一体何者の集団であったのであろうか。
 百四十七年後の訪問者である私も、痛恨の思いを禁じ得ない。
 まして会津の人びとの胸中には、如何なる思いが湧き上がるのであろうか。
 
 会津の人びとは異口同音に私に言った。
 会津に攻め入ってきた官軍の、
 特に長州の奇兵隊は、
 日本人の集団ではない。武士でもなんでもない。
 武器を持った夜盗だ。
 日本人は、遺体を放置して辱めるなどしない。

 そして、何の因縁か、百四十三年後、つまり四年前、
 
 奇兵隊が理想の組織と吹聴し長州人を名乗る菅直人総理によって、
 この地方の人びとはまたもや埋葬を禁じられて放置されたのだ。
 
 福島第一原子力発電所近くの人びとの遺体は、
 菅直人内閣の決定により収容されずに放置された。
 
 但し、菅内閣は、NPO法人の「犬猫救援隊」だけは、犬と猫を救援する為に地域内に入るのを許可した。
 彼らの報告によると、海岸沿いに多くの遺体が横たわっていたという。
 
 何故、菅直人は、犬と猫は収容し、人は収容を禁じたのか。
 やはり、これは人非人のすることだ。

 しかし、明治維新で官軍となり、位階勲等を極めた維新の功労者、維新の元勲達が忘れられても、
 
 賊軍となった会津の無名の人びとの士魂は残り、将来の我が国を支え続ける。
 
 飯盛山の自決した白虎隊の墓のある台地には、
 昭和三年にローマから贈られたポンペイの遺跡から発掘された古代宮殿の柱が立っている。
 その表面にはイタリー語で次の通り刻まれている。
「文明の母たるローマは、白虎隊勇士の遺烈に、
 不朽の敬意を捧げんが為め、
 古代ローマの権威を表すファシスタ党章の鉞(まさかり)を飾り、
 永遠偉大の証たる千年の古石柱を贈る」
 そして、その裏面には
 「武士道の精神に捧ぐ」
 と刻まれていた(大東亜戦争後、占領軍により削り取られた)。

 会津から帰った翌日の二十四日、
 神戸の生田神社において開催された「現代維新全国同志のつどい」の講師を務めさせていただいた。
 
 約七百年前の建武三年五月二十五日、
 楠木正成は、弟の正季ら七十人の部下とともに、
 生田川近くの湊川七生報国を誓い笑って自決する。
 その前日である二十四日は、
 正成主従は、櫻井で息子の正行を河内に帰してから、
 死ぬ場所である湊川に向かっていたであろう。

 その湊川の六十二年前の文永十一年、
 対馬の小茂田浜で、上陸してきた万を超える蒙古軍に対して、
 六十八歳の対馬守護代宗助国ら八十四騎が、
 微笑みながら突撃して玉砕する。
 その死を恐れぬ玉砕の報が鎌倉に達したとき、日本は一丸となる。
 蒙古軍の大将キントは、宗助国らの微笑んで突撃してきて玉砕する様を見て、
 「自分は今までいろいろな国の敵と戦ってきたが、
 このような恐ろしい敵は初めてである」と語った。

 近代日本の武士道・士魂は、
 この対馬の宗助国の玉砕と湊川楠木正成の戦いから生まれる。
 
 元禄五年、徳川光圀湊川に「嗚呼忠臣楠子之墓」を建立する。
 忠臣蔵(元禄十五年)も幕末の志士も、
 そして日清日露の勇者も、特別攻撃隊も、対馬湊川から生まれた。

 「楠公兄弟は、はじめより未だ死せず、
 楠公の後、楠公を生ずる者、もとより数ふべからざるなり」(吉田松陰
 
 明治元年明治天皇湊川湊川神社の創設を命ぜられる。

 またつくづく思えば、
 明治元年の戊辰の役における会津藩士の戦いも、
 明治十年の西南戦争における西郷隆盛の戦いも、
 この湊川から生まれた。
 
 宗助国や楠木正成らも、会津藩士らも、西郷らも、血だらけ泥だらけで亡くなった。

 宗助国以外、彼らはみな、賊軍の汚名をかぶせられた。
 しかし、官軍の立身出世した者よりも、
 彼らこそが、不朽である。
 
 彼らは、これからも生きている。
 そして、日本に危機が迫った時に、
 起き上がってきて我らの精神を支え勇気づけ国家を守ってくれる。

 明日、私は対馬に行き、
 日露戦争で押し寄せて来たロシアのバルチック艦隊
 東郷平八郎司令長官率いる我が連合艦隊が迎撃して殲滅した日本海海戦海域を見晴るかす
 対馬北端の岬に行って、日本海海戦百十年祭に出席する。
 日本海海戦百周年から私は毎年、その日、五月二十七日、対馬に行っている。

 陸軍記念日、すなわち奉天会戦勝利の日三月十日、
 海軍記念日、すなわち日本海海戦勝利の日五月二十七日、
 この民族の栄光である両記念日を取り戻すことが、即ち、日本を取り戻すことである。