西村眞悟の時事通信

明治維新以来、日本人は真の開拓者であった

平成27年5月6日(水)
 昨日に続き、北海道を報告する。
 報告の起点は、北海道の帝国陸軍第七師団創設の地である旭川そして上川地方だ。
 この地が如何にして現在の地になったのかを目の当たりに見れば、
 「北海道」が分かる。「北海道」が分かると言うことは、
 「日本人」が分かるということだ。
 日本人こそ、真の開拓者だ。
 では、それを目の当たりに見る場所はどこか。
 
   旭川神社にある「兵村記念館」である。

 「兵村記念館」を訪れて、最も印象に残ったものは、一枚の写真だ。
 その写真には、背丈の二倍ほどもある巨大な切り株が無数に乱立する中に佇む人びとが写っていた。
 
 その切り株は、その大地が巨大な樹木の密集する大森林だったことを示している。
 佇む人びとは、その大森林の中に入植した人びとである。
 彼らは、雪が降り積もった真冬に、その大木を切り倒して雪の上を滑らせて運んだ。
 写真は、春が過ぎて雪が融けて大地が現れたときの光景だ。
 そして、佇む人びとは、太陽が届くようになった地面を耕し始めるとともに、
 残った切り株を掘り出すという重労働を延々と続けた。
 
 入植して地面に太陽が届くようになるまで、さらに耕して収穫できるまで、
 一体、この人達は、何を食って働いていたのだろうか。

 伊予からの人びと(伊予団)、讃岐からの人びと(讃岐団)そして近江さらに群馬からの人びとが、
 力を合わせて、人が耕し住める大地になった比布町鎮守、比布神社の鎌田告人宮司
 「兵村記念館」に案内してくれたのだが、
 はじめに入植した人びとは、数年たって初めて周りに山があることを知ったのだと説明してくれた。
 このようにして、今の旭川、上川の大地が生まれていった。
 若い女性の観光客に愛される美瑛の町も景観も、このようにして生まれたのだ。

 昨日の時事通信で、公務員でありながら札幌の「北海道博物館」を私物化して、
 無垢な子供達に「和人」としての反日意識を刷り込もうとしている者達の書いた説明文を紹介した。
 矢臼別の航空写真の説明はこうだった。
   「航空写真からは、第1、4飛行場の形がよく見えます。
    戦争と現在がふしぎにつながっていると思いませんか。」

 馬鹿、アホかお前は、
 では、旭川の航空写真を説明せよ。
 そもそも旭川は、屯田兵と第七師団創設によってできた街なのだ。
 「ふしぎにつながっている」どころか、もともとここは軍と不可分一体だ。
 そして、ここに第七師団がなければ、日露戦争で旅順要塞の203高地は陥落せず、我が国は敗北だった。
 さらに大東亜戦争で、千島樺太どころか北海道全体が、スターリン支配下に入っていたのだ。
 
 札幌の「北海道博物館」に巣をつくっている反日野郎、
 軍とつながりがあるのは、当たり前じゃ、文句あるか。

 大東亜戦争ペリリュー島での戦闘でも明らかなように、
 アメリカ軍は一師団の六割が死傷すれば「全滅」と判断して前線から後方に引き上げさせる。
 それ故、アメリカの第1海兵師団は、六割が死傷して「全滅」し、島から撤退した。
 しかし、日露戦争の旅順要塞攻撃では、
 第七師団は一万五千の兵が千名になっても、「師団」として、最後の奉天まで戦闘を継続した。
 旅順での満州軍参謀長児玉源太郎大将と、第七師団長大迫尚敏中将の会話は次の通り。
 「大迫さん、北海道の兵は強いようじゃのう」
 「強うございました。一万五千の兵が千名になりました」

 何故、北海道旭川の第七師団は戦い続けたのか。
 「この戦いに負ければ、日本は亡びる」
 と兵士一人一人が知っていたからである。まさに救国の為に戦い続けた。
 第七師団は第三軍の隷下にあり、彼らは、第三軍司令官乃木希典大将のもとで戦った。
 それ故、先年、乃木希典大将の浪曲をうなれば日本一の松浦四郎若さんに頼んで、 
 比布神社、旭川神社、美瑛神社そして護国神社において、乃木希典を謳っていただいた。
 各神社の宮司のお力で、多くの氏子の皆様が集まっていただいた。
 涙を流す人も多かった(鎌田宮司や私も含む)。四郎若さんは、さすがに喉がかれていた。

 さて、冒頭に、報告の起点は旭川、と言った。従って、ここを起点にして次ぎに続ける。
 昨年の十月、そして本年の四月に行った、サイパンテニアン、そして、パラオのことだ。

 サイパンテニアンを訪れたとき、道の回りはみなジャングルだった。
 しかし、そのジャングルの中に、神社があり発電所や製糖工場跡があり、また学校跡があった。
 ある廃墟になった発電所は、今も一番頑丈な建物であり、大型台風が来れば、今も人びとの避難所として使われている。
 これは何を語っているのか。

 その時、遙か南のサイパンで、
 北海道旭川の「兵村記念館」の切り株の中に人びとが佇む光景を思い出したのだ。
 日本人は、北海道と同様に、熱帯のジャングルを切り開いて畑を造り、街を造り、
 現地の人びとが学ぶ学校を造り、現地の人びとが働ける産業を興した。
 サイパンでは、全島を一周する鉄道を敷いて機関車を走らせていた。
 そのレールがジャングルの中で、成長する木に一メートルほどの高さまで持ち上げられているのを見た。
 
 何故、この日本人が開拓した土地がジャングルに戻ってしまっているのか。
 それはアメリカ軍が、日本人が戻れないようにするために街や畑や工場をジャングルの中に沈めたからである。アメリカ軍は、わざと成長が早い「タガン・タガン」というシダ植物の種を空中散布してジャングルに戻してしまった。
 それで今は、現地の人びとの職場である地場産業がなくなり、アメリカの生活保護費に頼るただ観光だけの島になっている。

 パラオの開発も日本人がした。
 現在、パラオ共和国の人口(約二万人)の九割近くが住むコロールの昭和十年代の地図を見れば、整然たる市街地である。日本国内の田舎の城下町のようだ。日本人は、ここでも現地の子供が学べる学校をつくっている。
 この昔の地図で見る日本統治時代のコロールは、
 戦後アメリカが五十年以上も統治した後の姿である今よりも、よい市街地だ。

 このように、北海道の旭川と、日本時代のサイパンパラオの符合に気付いたのであるが、
 さらに思えば、
 日本人は、朝鮮でも台湾でも満州でも、そこで学校を造り産業を興しそこを豊にした。
 さらにブラジルのアマゾンでも、同じようにそこを住みよい働ける大地に開拓していったのだ。
 日本人の行くところは、そのように開拓される。

 アメリカ人は、アメリカ西部を開拓したと言われる。
 しかし、日本人の開拓とは違う。彼らの開拓とは、
 原住民のインディアンを駆逐してその土地を奪うことであり、ゴールドを求めて殺到することであった。
 イギリス人は、インドで、現地のインド人の学校をつくるという発想があったのか、
 オーストラリアで原住民のアボリジニの学校をつくろうとしたのか。
 オランダ人は、インドネシアで現地の農業を潰してオランダが欲するのもだけを作らせた。
 彼ら白人の開拓は植民であり、現地の富を奪うことが目的だった。

 以上、十九世紀から二十世紀を顧みるとき、
 日本人こそ、天地に恥じない真の意味の開拓者だった。
 このこと、北海道旭川の「兵村記念館」を起点として教えられた。
 諸兄姉、是非、
 比布神社と旭川神社、旭川護国神社そして美瑛神社を訪れられたし。