転載 真悟の時事通信2015/4/1
複雑怪奇とは現在のことよ
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昭和十四年八月、平沼騏一郎総理は、「欧州の天地は複雑怪奇」との声明を発して内閣を総辞職させた。
「複雑怪奇」とは、
我が国が、ソビエトと満州の「ソ満国境」の大草原において、
たった 一個師団(第二十三師団)兵員約二万で、ソビエトのジューコフ将軍が率いる多数の戦車と航空機を擁する二十三万のソビエト軍を相手に壮絶な死闘を繰り広げているときに、
突如、モロトフ・リッペントロップ協定(独ソ不可侵条約)が締結されたことを指す。
その時我が国は、ドイツとの軍事同盟締結交渉を進めていたのだ。
同盟締結交渉の相手が、突如、敵と同盟を結んだのだ。
この「複雑怪奇」な独ソ不可侵条約締結の翌月である九月一日、ナチスドイツはポーランドに侵攻し、同じく東から侵攻したソビエトと独ソ不可侵条約に基づいてポーランドを分割した。
第二次世界大戦の勃発である。
そして、複雑怪奇な欧州に端を発したこの大戦が、
次の通り、米英首脳F・ルーズベルトとチャーチルの「戦争の謀議」、
まさしく秘密謀議!
によって我が国を巻き込みにきた。
昭和十五年(一九四〇年)、
「お母さん、あなたの息子を戦場には送りません」と公約して大統領に三選されたルーズベルトは、就任してすぐに「アメリカは欧州の兵器廠である」と宣言する。
これは、ナチスと戦っているイギリス等に武器弾薬を供給するとの宣言で、事実上の「参戦」である。
不参戦を公約して三選されて露骨に公約違反の参戦ができないので兵器廠宣言となったのだ。
まことに狡い奴ではないか。
しかしこの時、既にパリは陥落(六月十四日)してヒットラーの占領下にあり、イギリス軍はドイツ軍に追いつめられてダンケルクから敗退し、イギリス本土にもドイツ空軍による空襲が開始(八月)されていた。
従って、この兵器廠宣言の時には、既にアメリカは「参戦」していた。
つまり、アメリカ軍パイロットは、
バトル・オブ・ブリテンに送り込まれロンドン上空でドイツ空軍機と戦っていた。
そして、日華事変においても、
中国大陸内にフライング・タイガーというアメリカ軍パイロットの連中が送り込まれ、
我が陸海軍の戦闘機や爆撃機と戦っていた。
確か、親父の方のブッシュ大統領は、小笠原沖で日本軍に撃墜されて生き残ったパイロットだったが、
大統領として中国内のフライング・タイガーの基地を訪れている。
彼は、ルーズベルトと比べれば、まことに、馬鹿なほど正直ないい人である。
さて、ドイツ軍に首都を焼かれて追いつめられた当のイギリスには、
ルーズベルトに劣らない謀略家(たぬき)チャーチルがいて、
アメリカとドイツを公然と戦わす方策を練っていた。それが、
「Back Door To The War」
欧州から見れば裏口であるアジアから戦争へ向かう、というのである。
つまり、日本にアメリカを攻撃させてアメリカ参戦やむなしの状況を造り上げれば、
ルーズベルトを信頼したアメリカの「お母さん」も納得してくれるというわけだ。
昭和十六年八月一日、
アメリカは対日石油輸出全面禁止を宣言する。
このまま放置すれば、日本自滅のカウント・ダウンが始まる。
従って近衛総理は、ルーズベルトとの首脳会談を求めるなどアメリカとの戦争を回避するために健気な努力を続ける。
しかし、近衛総理から首脳会談を求められていたルーズベルトは、
会談の申込みを拒否することもなく放置しながら、
ニューファンドランド沖に停泊したイギリス戦艦プリンス・オブ・ウェールスの艦内でイギリス首相のチャーチルと会っていたのだ(八月十四日)。
世に、この時両首脳は戦後秩序を定めた「大西洋憲章」を発布したとされているが、
これは表向きのカモフラージュだ。
そもそもナチスに首都を焼かれている国の最高戦争指導者が、戦線を離脱するように、わざわざ大西洋をどんぶりこと渡って、戦後の世界秩序など発表に来るものか。
この会見の眞の目的は、日本に先に手を出させて、まずアメリカが日本と交戦状態に入り、
自動的に日本の同盟国であるドイツと欧州で戦う為の「戦争の謀議」である。
そして、この謀議通り、我が国機動部隊は真珠湾に誘導されていく。
我が国がこの戦争に勝っておって、戦後に「ワシントン裁判」を開けば、
ルーズベルトとチャーチルは、
正真正銘の「戦争の謀議」という罪状によって有罪、即、絞首刑である。
まことに惜しいことをした!
以上、このルーズベルトとチャーチルの一連の動きも、まさに複雑怪奇ではないか。
平沼騏一郎総理は、ドイツとソビエトによる欧州の状況を複雑怪奇と言ったのだが、
実は、これは複雑怪奇の序の口で、
その前もその後も複雑怪奇なのだ。
さらに、我が国が、それに翻弄されるうぶさ加減も、その前もその後も現在も変わらない。
よって、本日、四月一日はエイプリル・フールであるから、
うぶな日本がそのまま「ウソ」を信じたまま現在にいたって、
戦後七十年総理大臣談話まで出そうとしている「複雑怪奇な天地」の出来事を思いつくまま書いておきたい。
(1)露清密約、明治二十九年(一八九六年)、
三国干渉を日本に飲まして清国に恩を売ったロシア大蔵大臣ウィッテと清国大使李鴻章は、
「清国が満州をロシアに差し上げるかわりにロシアは日本から清国を守る」と言う密約を結んだ。
そして、李鴻章は満州の代金として膨大な賄賂をロシアから受け取る。
現在、李鴻章の子孫は、
名前を変えてアメリカに住んでおり贅沢三昧の生活をしていると若狭和朋先生が教えてくれた。
そして、この露清密約の十年後、
我が国は満州からロシアを追い出す為にロシアと満州で血みどろになって戦い、
支那は、日本のお陰でロシア軍のいない綺麗になった満州を受け取る。
売ったものをタダで受け取るとは厚かましいではないか。
大正十一年(一九二二年)、ワシントン会議の席で中華民国代表が露清密約を暴露した。
その時我が国は初めて露清密約を知った。何と言うことであろうか!
(2)ハプロ密約、昭和十一年(一九三六年)四月
今度は蒋介石とドイツとの密約である。この密約により第一次世界大戦のドイツ軍の名将であるハンス・ゼークト将軍やファルケンファルゼン大将ら五百数十名のドイツ軍事顧問団が蒋介石軍に送り込まれて中国軍の近代化と強化に尽力した。その目的は日本軍を打倒する為である。
その結果、日本軍を打倒できると考えた蒋介石は、
昭和十二年八月、自信をもって上海の日本居留民十万人を殺戮しようと襲いかかった。
守る日本海軍陸戦隊は五千人に過ぎなかった。
この攻防は、結局同年十二月の南京陥落によって決着するが、
蒋介石軍はドイツ軍事顧問のお陰で装備も優秀で強く日本軍は大苦戦する。
そして、戦死者二万千三百、負傷五万人を出す。この損害は日露戦争の奉天大会戦を凌駕する。
このハプロ密約も露清密約と同じく我が国にとって、惨害であった。
(3)コミンテルン指令
ソビエトに本拠をおく国際共産主義運動、第三インター、コミンテルンこそ
日華事変を作出しGHQの日本占領統治に影響を与え、中華人民共和国を誕生させ、
現在の我が国を自虐史観で縛り続ける元凶である。
①昭和元年(一九二六年)北京のソ連大使館へのコミンテルン指令
「あらゆる方法を用いて国民大衆による外人排斥を引き起こさなければならない。
この目的達成の為に各国と大衆を武力衝突させなければならない。
これによって各国の干渉を引き起こすことができたならば、
さらに方法を選ばず、それを貫徹すべきである。
たとへ、略奪や多数の惨殺をもたらすものであっても構わない。
大衆が欧州の軍隊と衝突した時には、その機会を決して逃してはならない。」
・・・この指令に基づいて、
翌年三月二十四日の北伐軍による南京事件や翌々年五月三日の済南事件が起こる。
前者は南京における欧米諸国民と日本人に対する略奪暴行であり
後者は山東半島における日本人に的を絞った殺戮である。
②昭和三年(一九二八年)のコミンテルン第六回大会決議、
共産主義者は、
1、自国の敗北を助成すること。
2、帝国主義戦争を自己崩壊の内乱戦たらしめること。
3、戦争を通じてプロレタリア革命を遂行すること。
・・・中国共産党は、このコミンテルン指令に基づいて中国の政権を獲得した。
この為に、最大の武装勢力である蒋介石の国民党軍と日本軍を戦わせ、最終勝利を得た。
毛沢東曰く、「政権は銃口より生まれる」の通り権力を握ったのだ。
③昭和十年(一九三五年)のコミンテルン第七回大会決議
共産主義者は、
身分を隠してブルジョア組織のなかに潜入し、ブルジョア組織を利用して人民戦線(フロント)を結成せよ。
・・・日華事変の当時の近衛内閣の顧問はこのフロントの尾崎秀美である。
彼はコミンテルンの指令通り、近衛総理の目指す日華事変収拾を妨害し続けた。
またフロントは、アメリカのルーズベルト政権にも入り込んでおり、
日本に対する最後通牒のハルノートを起案して日本の戦争回避努力を葬り去った。
さらに、フロントは、連合国の日本の占領政策を左右した。
そして、戦後、
我が国の多くの左翼学生は、
フロントとしてブルジョア組織(官僚機構、NHKやマスコミ各社そして大企業)のなかに入り込み、
現在日本を、奇妙奇天烈な憲法解釈による「平和主義」と「自虐史観」に固定せんとしている。
そもそも、菅直人という左翼学生が、そのまま総理大臣になったのはコミンテルンのもたらした惨害である。
(4)日華事変は何故起こったか。
日本軍国主義が起こしたというのは中国共産党コミンテルンのプロパガンダである。
昭和十一年(一九三六年)十二月十二日の西南事件による第二次国共合作によって、
日華事変は、中国軍の中に入り込んだ共産党員劉少奇が指揮したコミンテルン指令の実践である。
続く通州事件の酷たらしい日本人虐殺もコミンテルン指令の実践である。
以後、日華事変は収拾困難になる。
要するに、日華事変・日中戦争は、
コミンテルンの指令が実践されて中国共産党が政権を握るプロセスなのである。
この自国民に対しても無慈悲で残虐な中国共産党コミンテルンの本質を隠蔽する為のプロパガンダが、
架空の南京大虐殺を象徴とする日本軍国主義蛮行の羅列である。
(5)満州某重大事件、昭和三年(一九二八年)六月四日、
満州の馬賊の親分から軍閥になった張作霖爆殺事件であるが、
従来は、日本軍国主義の犯行、つまり関東軍参謀河本大作大佐が指揮した爆殺だとされていた。
しかし近年、この犯人はコミンテルンであるとの有力な説が出されている。
北京に雪崩れ込んでソビエト大使館を家宅捜索して前掲のコミンテルン指令を持ち出したのは張作霖であった。張作霖は親日本と欧米よりであった。
よって、コミンテルン説は説得力を持つ。
(6)伊藤博文を殺したのは朝鮮人の安重根ではない。
明治四十二年(一九〇九年)十月二十六日、伊藤博文はハルビン駅頭で射殺される。
伊藤には三発の銃弾が命中しており二発が体内に残り一発は貫通している。
その三発の命中弾は上から下に打ち込まれている。
そして、体内に残留した二発はフランス騎兵銃の銃弾である。
他方、安重根の所持していたのはブローニング拳銃であり、
安はプラットホームに膝をついて下から上に五発撃っている。
よって、ハルビン駅前に安重根の銅像や記念館を建てるように要請している馬鹿がおるが、
また、記念館を建ててしまった同類もいるが、
安重根は、伊藤を殺してはいない。
これ、まさに「怪奇」ではないか。
以上の通り、露清密約から満州某重大事件や伊藤暗殺まで、思いつくままに書いてきたが、
みな我が国の「戦後」においては、四月一日のエイプリル・フールの話かと思えることばかりである。
つまり、「複雑怪奇」は、欧州の天地よりも支那を中心とした我が国周辺こそ
当時もそして現在も「複雑怪奇」なのだ。
そのなかで、我が国だけが別世界のように、
万世一系の天皇を戴いて祓われ清澄で綺麗である。
ということなのに、
この人を騙すことを何とも思わないどす黒い複雑怪奇な天地から言われることを真に受けて、
複雑怪奇な彼らが喜ぶことを、複雑怪奇な彼らの利益の為に、
七十年以上もたってから、
馬鹿の標本、村山富市談話と整合性のある談話を出そうと準備している政府がある。
まるで、これこそエイプリル・フールではないか。いや、ジャパニーズ・フールではないか。
とはいえ、エイプリル・フールは一年に一日だけだ。
安倍晋三総理大臣の、
祖国愛と祖国への忠誠と狂を発する長州人の血に、
切に期待して四月一日の本稿を終えたい。