日本は本当にアジアを侵略したの!?大東亜戦争の真相と

戦後生まれの私たちは、学校で習ったろくでもない歴史の授業と、GHQのプレスコードによって歪められたメディアの報道によって、「戦前戦中の日本=悪」のイメージが稚拙な脳みそに擦り込まれてきました。
まあ、右でも左でも、本当に日本が好きならどっちでもええんですが、各国の要人や著名人の多くが、日本の文化人気取りの左翼よりもずっと日本を正しく評価してくれてます。



サンティン(アムステルダム市長、現内務大臣) 

「あなた方の日本国は先の大戦で負けて、私共のオランダは勝ったのに大敗をしました。

 今日の日本国は世界で一、二位を争う経済大国になりました。

 私達オランダは、その間、屈辱の連続。

 即ち、勝った筈なのに貧乏国になってしまいました。

 戦前は「アジア」に大きな植民地(オランダ領東インド(蘭印)=ほぼ現在のインドネシア)が有り、石油等の資源・産物で、本国は栄耀栄華を極めておりました。

しかし今では、日本の九州と同じ広さの本国だけになってしまいました。

あなた方の日本国は、「アジア各地で侵略戦争を起こして申し訳ない。アジアの諸民族に大変迷惑をかけた」と、自らを蔑み、ぺこぺこと謝罪していますが、これは間違いです。

あなた方こそ、自らの血を流して、アジア民族を解放し、救い出すと言う人類最高の良い事をしたのです。

 何故ならば、あなた方の国の人々は過去の真実の歴史を目隠しされて、先の大戦の目先の事のみを取り上げ、或いは洗脳されて、悪い事をしたと自分で悪者になっていますが、ここで歴史を振り返って真相を見つめる必要があるでしょう。

 本当は、私共白色人種が悪いのです。

 百年も二百年も前から、競って武力で東亜諸民族を征服し、自分の領土として勢力下に置いたのです。

 植民地・属領にされて、永い間奴隷的に酷使されていた東亜諸民族を解放し、共に繁栄しようと、遠大崇高な理想を掲げて、大東亜共栄圏樹立という旗印で立ち上がったのが、貴国日本だったはずでしょう。

 本当に悪いのは、侵略して権力を振るっていた西欧人の方です。日本は戦いに敗れましたが、東亜の解放は実現しました。

 即ち、日本軍は戦勝国の全てをアジアから追放して終わったのです。

その結果、アジア諸民族は各々独立を達成しました。

日本の功績は偉大であり、血を流して戦ったあなた方こそ、最高の功労者です。

自分を蔑む事を止めて、堂々と胸を張って、その誇りを取り戻すべきであります。」 

 (1985年日本側傷痍軍人会代表団がオランダを訪問した時行われた市長主催の親善パーティの歓迎挨拶、(財)日本国防協会理事の浅井啓之氏が1994年3月24日作成)


 

日本は昭和十六年十二月八日、自存自衛と大東亜共栄圏の理想を実現するべく、日本を戦争に追い込んだ欧米諸国に立ち向かった。 白人不敗の神話を崩壊させた日本軍は、わずか半年余りで、東南アジア全域を西欧列強の植民地支配から解放した後、東南アジアの各地に独立義勇軍を結成して軍事訓練を施し、敗戦後に展開された「第二次大東亜戦争」とも言うべきアジア諸国の民族解放戦争と民族独立運動に契機を与えていた。

だが、開戦以来、武運に恵まれていた日本軍も、米軍の反撃の前に次第に守戦に立たされるようになっていった。

終戦後、GHQ(連合国軍総司令部)は、対日占領政策の一環として、日本改造計画(帝国憲法の改正と日本の社会システムの改造、歴史の改竄など)を実施したが、幸いにも日本は、固有の領土のほとんどを保全することができたし、ドイツのように分割占領にもあわず、国体を護持することができたのは、まさに天佑だったと言わねばならないだろう。

英国の歴史家H・G・ウェルズが「この大戦は植民地主義に終止符を打ち、白人と有色人種の平等をもたらし、世界連邦の基礎を築いた」と、大東亜戦争の世界史的な意義を述べている。
大東亜戦争は、戦後のアジア、アフリカに多くの独立国家を生み出す契機を与えた戦争だったと思っている。

だが、戦後の日本人には、当時の日本の国力を遥かに超えたアメリカの指導者をして「太平洋戦争は薄氷を踏む思いで戦った戦争で、幸運と日本の失敗によって勝つことができた」と言わしめた日本軍は、例え戦いに敗れたとはいえ、西欧の植民地支配を崩壊させて世界史の流れを大きく変えた、という誇りが全く欠けているのである

日本駐在フランス大使を務めた、ポール・クローデル(劇作家、詩人)が昭和十八年の秋に、パリの夜会のスピーチで述べているように、戦前の日本は、外国人から賞賛されるほど尊い国であった。
「私がどうしても滅びてほしくない一つの民族がある。それは日本人だ。あれほど古い文明をそのままに今に伝えている民族は他にはない。
日本の近代における発展、それは大変目覚しいが、不思議ではない。日本は太古から文明を積み重ねてきたからこそ、明治に入り欧米の文化を急速に輸入しても発展できたのだ。
どの民族もこれだけ急な発展をするだけの資格はない。しかし、日本にはその資格があるのだ。古くから文明を積み上げてきたからこそ資格がある。彼らは貧しい。しかし、高貴である」
だが、現代の日本に、命を賭けてでも護らなければならない価値が果たして存在するだろうか。
凶悪事件の頻発、食品偽装問題、公務員、教師、政治家の不祥事などが起こり、日本人のモラルの崩壊が叫ばれるようになってきたが、このように頽廃した国を、誰も、一身を捧げてまで護りたいとは思わないだろう………
だが日本人が、世界から高く賞賛された大東亜戦争の世界史的意義を再評価し、東京裁判がもたらした誤った歴史認識から脱却し、先の大戦で今を生きる我々の為に、散華された英霊方に感謝をする事が重要である。

もし日本人にそれができたならば、再び日本が国難に直面しても、かつての日本人のように、日本を護るために、いつでも死ねる覚悟と勇気を持った者が現れてくるはずである。

以下、世界から見た大東亜戦争における日本の功績など。
 
 
インドのオールドデリー市街、チャンドラ・ボース公園の「インド独立義勇軍(INA)と日本兵たち」の像(日の丸もある)
インドネシア独立戦争では、約3,000名の日本兵インドネシアの為に戦ってくれました。私たちはその『心』を大切にし、同じアジアの民族として伝えなければなりません。その『心』は日本とアジアばかりではなく、世界の平和にも繋がるのです。
ところが、インドネシアの独立で通じ合った日本の犠牲的精神を、今の日本の若い人達はほとんど知りません。残念でたまりません。私達の独立の為に戦ってくれた日本兵の事を、きちんと日本で語り継いでほしいと思います。
そしてインドネシアに来られたら、ジャカルタの英雄墓地に眠る日本兵奥城にお詣りして下さい。その墓標には、みなイスラムの名前と日本人の名前が彫られています」
 
 
サンパス 元復員軍人省長官
「特にインドネシアが感謝する事は、戦争が終わってから日本軍人約2000人が帰国せず、インドネシア国軍と共にオランダと戦い、独立に貢献してくれた事である。日本の戦死者は国軍墓地に祀り、功績を讃えて殊勲章を贈っているが、それだけで済むものではない」
 
アラムシャ 元第3副首相

「我々インドネシア人はオランダの鉄鎖を断ち切って独立すべく、350年間に亘り幾度か屍山血河の闘争を試みたがオランダの狡知なスパイ網と強靱な武力と苛酷な法律によって圧倒され壊滅されてしまった。それを日本軍が到来するや、たちまちにしてオランダの鉄鎖を断ち切ってくれた。インドネシア人が歓喜雀躍し感謝感激したのは当然である」

 
ブン・トモ 元情報相

「日本軍がアメリカ・オランダ・フランスを我々の面前で徹底的に打ちのめしてくれた。我々は白人の弱体と醜態ぶりをみてアジア人全部が自信を持ち、独立は近いと知った。そもそも大東亜戦争は我々の戦争であり、我々がやらねばならなかった。それなのに全て日本に背負わせ日本を滅亡寸前まで追い込んでしまった。申し訳ない」

 
インドネシア サンバス長官

「日本の戦争目的は植民地主義の打倒であった。その目的の大半は達成したが、南アフリカ、アジアにまだ残っている。そんな時に行った村山演説は、植民地主義打倒の悲願を放棄したことになる。村山さんは日本の果たしてきた歴史を踏まえ、A・A(アジア・アフリカ)の悲願を代表して、まだ残る植民地主義を攻撃すべきであった。かつての日本は、スカルノ、ハッタ、バー・モウ(アウンサン)、ラウレル、アキノ、汪兆銘チャンドラ・ボース等を応援したのに、たった一度の敗戦で大切な目的を忘れてしまったのは遺憾である」

 

ビルマ元首相バ・モウ氏

約50年前ビルマは3回にわたる対英戦争の結果その独立を失えり、英国側はアジアに対する
掠奪的野望を以て此等の戦争を遂行せり。愛国者は挺身的精神をもって鎮圧、入獄、流謫、拷問及びしばしば死そのものを甘受して突進して来れり、これらの英雄はビルマの生存のため苦難を受け遂には斃れたり。ビルマ人はアジアを結合せしめアジアを救う指導者を待望しつつありしが遂にこれを大日本帝国に発見せり。ビルマ人はこのビルマに対する最大の貢献に対する日本への感謝を永久に記録せんことを希望するものなり(独立宣言より)


ククリックド・プラモード (タイ国元首相 )
 「日本のおかげでアジアの諸国はすべて独立した。
 日本というお母さんは難産して母体をそこなったが、産まれた子供はすくすくと育っている。
 今日、東南アジアの諸国民が米英と対等に話ができるのは、いったい誰のおかげであるのか。
それは身を殺して仁をなした日本というお母さんがあったためである。
 十二月八日は、我々にこの重大な思想を示してくれたお母さんが一身を賭して重大決意をされた日である。
 我々はこの日を忘れてはならない。」( 十二月八日、現地の新聞「サイアム・ラット紙」において )