転載 真悟の時事通信
「戦後」だと思っておればいつの間にか「戦前」である
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平成27年3月29日(日)
現在、安倍晋三総理大臣の「戦後七十年談話」を作成するにあたって、政府に「有識者懇談会」が発足し、
時折、その「懇談内容」が漏れ伝えられて報道されるようになった。
この情報のリークは、いつもながらの情報操作の一環である。
このようにして、これを繰り返して、外務省や官邸の事前に想定している結論に
「国民の知らない無視できないアメリカをはじめとする国際社会の圧力の中で、
けなげにもその圧力を真剣に良心的に受けとめながら、
紆余曲折の末に、人知を絞り尽くして辿り着いた」
と、いう涙ぐましい努力のシナリオが実現されていく。
そして、喉元過ぎたあとは忘れる。総理大臣はもちろん、誰も責任をとらない。
これが、「戦後七十年総理大臣談話」に限らず、政府による「有識者懇談会」というものである。
さて、「戦後」とは何時からか、と言えば、
昭和二十年(一九四五年)九月二日(降伏文書調印)からであろう。
「戦後」の起点が昭和二十年ならば、
ここから七十年前は明治八年(一八七五年)で、西南の役勃発の二年前である。
この年、千島樺太交換条約がロシアと結ばれ、
武士階級はまだ刀を腰に差して歩いており廃刀令はでていない。
現在、昭和二十年を起点にすれば、
明治八年以前の遙か昔のことに関して「総理大臣談話」を出そうとしているのだ。
では何故、平成二十七年の総理大臣は、
これほどの年数の隔たりのある昭和二十年以前のことを取り上げなければならない現在政治上の必要性に迫られているのか。
このことを極めて不自然で奇妙なことだと思わずに、大真面目にしようとしているということ自体が、
「日本を覆う戦後という枠組み」(思想的・政治的・体制的な手かせ足かせ)が
七十年間も続いていることを示すことなのだと思う。
つまり、我々、日本と日本人は、
七十年間も「戦後という安楽な家(牢獄)」のなかで生活することを強いられてきた。
従って、このままでは、七十年経っても「戦後」であり、百年経っても百五十年経っても「戦後」である。
それ故、もし、中共が、また韓国が、存在していたらの話であるが、
これから十年、また二十年、そして三十年経てば、
「戦後八十年談話」、「九十年談話」そして「百年談話」を出す羽目になろう。
そこで、「戦後体制からの脱却」また「日本を取り戻す」と言って総選挙を経て総理大臣の地位に就いた安倍晋三総理に申す。
戦後七十年談話を出すと言ってしまった以上、出さねば嘘をついたことになるから出されよ。
そして、その主要な内容は、総理大臣の権限と責任において、次の如き宣言とすべきである。
「現在は、もはや戦後ではない、既に戦前である。よって、我が国は戦後の枠組みから脱却する」
これ、「有識者懇談会」の主要議題とはまったく次元が異なる。
しかし、安楽な「戦後」はもうないのであるから、
我が国家の存亡に最大最深の政治的責任を有する総理大臣は、
「懇談会」(つまり外務省の役人)に拘束されては責務を果たせない。
しかも、我が国を何時までも「戦後体制という枠組」のなかに閉じこめておくために
我が国の総理大臣が「戦後七十年謝罪談話」を発出するように誘導し圧力をかけている中華人民共和国自体が既に「戦後」ではなく、着々と「戦前」を実践しつつあるのだから、
安倍総理は長州人らしく、同じく長州人の吉田松陰先生の言われた「狂を発し」、
「我が日本は、『戦後体制』の桎梏から脱却し、祖国の存立を確保し民族の名誉を守る」と宣言すべきである。
では、「戦前」とは何か。
昭和十四年(一九三九年)一月、日華事変収拾に失敗した近衛内閣総辞職の後に発足した平沼騏一郎内閣は、ソビエトとのソ満国境における大規模武力衝突であるノモンハン事件に遭遇するなかで、
ドイツとの軍事同盟締結の交渉を進める。
しかし、八月二十三日、ドイツとソビエトは、モロトフ・リッペントロップ協定、つまり、独ソ不可侵条約を締結する。即ち、味方だと思っていたドイツが交戦中の敵と不可侵条約を結ぶのである。
そこで平沼騏一郎総理は、「欧州の天地は複雑怪奇」という声明を発して総辞職する。
この「複雑怪奇」のなかからナチスドイツのポーランド侵攻即第二次世界大戦が勃発し、
それは六年後に我が国に二発の原子爆弾を投下した後に終了する。
「戦後」とは、この「複雑怪奇な天地」を「戦前」として生み出された。
「戦前」とは平沼騏一郎総理が警告を発した通りの「複雑怪奇」なことを言う。
そして、この一年間で明確になったのは、
欧州は再び「複雑怪奇」な天地、即ち「戦前」に戻ったということである。
それを明確にしたのは、ロシアのプーチン大統領である。
彼は、武力でクリミヤを併合しウクライナ東部を制圧した。そして、イギリスもフランスもドイツもアメリカもそれを止めることはできない。その結果、欧州では、ロシアのバルト三国への武力侵攻も予想し得る事態となった。
つまり、欧州の天地では、プーチンによって、武力によって国家の勢力圏が変更することが実証された。
これが「戦前」に戻ったということである。
それでは、アジアの天地はどうか。
事態を見つめれば、明らかであろう。アジアの天地も既に「戦前」である。
中共は、ベトナム戦争の終結によってアメリカがベトナムから撤退した直後から南シナ海南西部へ、
さらにフィリピンのスービック基地からアメリカが撤退した直後からは南シナ海中央部へ、
それぞれ武力侵攻して勢力圏を武力で拡張している。
即ち、アジアで次ぎにヨーロッパで、既に勢力圏を武力で拡大させる「戦前」が始まっている。
アジアとヨーロッパが違うのは、アジアの中共は、夜盗や土匪のようにこっそりとやっていたのに対し、
ヨーロッパでは、プーチンのロシアが、白昼、正々堂々としたことである。
以上のように、既に世界は、とりわけ我が国の存在する東アジアは、「戦前」なのだ。
そして、この「戦前」を造りだした夜盗が、
我が国を「戦後」という牢獄にこの先も閉じこめ続けようとして総理大臣の謝罪決議を期待している。
その目的は、戦後体制のままの我が国を、効率よく制圧し勢力圏を拡げることである。
よって、切に願い、何度でも言う。
安倍総理、「戦後」という枠内の「有識者懇談会」と外務省に囚われず、それらを放擲して、
政治家としての知性と本能に基づいて、
「戦後からの脱却宣言」という「戦後七十年総理大臣談話」を発出されたい。
時折、その「懇談内容」が漏れ伝えられて報道されるようになった。
この情報のリークは、いつもながらの情報操作の一環である。
このようにして、これを繰り返して、外務省や官邸の事前に想定している結論に
「国民の知らない無視できないアメリカをはじめとする国際社会の圧力の中で、
けなげにもその圧力を真剣に良心的に受けとめながら、
紆余曲折の末に、人知を絞り尽くして辿り着いた」
と、いう涙ぐましい努力のシナリオが実現されていく。
そして、喉元過ぎたあとは忘れる。総理大臣はもちろん、誰も責任をとらない。
これが、「戦後七十年総理大臣談話」に限らず、政府による「有識者懇談会」というものである。
さて、「戦後」とは何時からか、と言えば、
昭和二十年(一九四五年)九月二日(降伏文書調印)からであろう。
「戦後」の起点が昭和二十年ならば、
ここから七十年前は明治八年(一八七五年)で、西南の役勃発の二年前である。
この年、千島樺太交換条約がロシアと結ばれ、
武士階級はまだ刀を腰に差して歩いており廃刀令はでていない。
現在、昭和二十年を起点にすれば、
明治八年以前の遙か昔のことに関して「総理大臣談話」を出そうとしているのだ。
では何故、平成二十七年の総理大臣は、
これほどの年数の隔たりのある昭和二十年以前のことを取り上げなければならない現在政治上の必要性に迫られているのか。
このことを極めて不自然で奇妙なことだと思わずに、大真面目にしようとしているということ自体が、
「日本を覆う戦後という枠組み」(思想的・政治的・体制的な手かせ足かせ)が
七十年間も続いていることを示すことなのだと思う。
つまり、我々、日本と日本人は、
七十年間も「戦後という安楽な家(牢獄)」のなかで生活することを強いられてきた。
従って、このままでは、七十年経っても「戦後」であり、百年経っても百五十年経っても「戦後」である。
それ故、もし、中共が、また韓国が、存在していたらの話であるが、
これから十年、また二十年、そして三十年経てば、
「戦後八十年談話」、「九十年談話」そして「百年談話」を出す羽目になろう。
そこで、「戦後体制からの脱却」また「日本を取り戻す」と言って総選挙を経て総理大臣の地位に就いた安倍晋三総理に申す。
戦後七十年談話を出すと言ってしまった以上、出さねば嘘をついたことになるから出されよ。
そして、その主要な内容は、総理大臣の権限と責任において、次の如き宣言とすべきである。
「現在は、もはや戦後ではない、既に戦前である。よって、我が国は戦後の枠組みから脱却する」
これ、「有識者懇談会」の主要議題とはまったく次元が異なる。
しかし、安楽な「戦後」はもうないのであるから、
我が国家の存亡に最大最深の政治的責任を有する総理大臣は、
「懇談会」(つまり外務省の役人)に拘束されては責務を果たせない。
しかも、我が国を何時までも「戦後体制という枠組」のなかに閉じこめておくために
我が国の総理大臣が「戦後七十年謝罪談話」を発出するように誘導し圧力をかけている中華人民共和国自体が既に「戦後」ではなく、着々と「戦前」を実践しつつあるのだから、
安倍総理は長州人らしく、同じく長州人の吉田松陰先生の言われた「狂を発し」、
「我が日本は、『戦後体制』の桎梏から脱却し、祖国の存立を確保し民族の名誉を守る」と宣言すべきである。
では、「戦前」とは何か。
昭和十四年(一九三九年)一月、日華事変収拾に失敗した近衛内閣総辞職の後に発足した平沼騏一郎内閣は、ソビエトとのソ満国境における大規模武力衝突であるノモンハン事件に遭遇するなかで、
ドイツとの軍事同盟締結の交渉を進める。
しかし、八月二十三日、ドイツとソビエトは、モロトフ・リッペントロップ協定、つまり、独ソ不可侵条約を締結する。即ち、味方だと思っていたドイツが交戦中の敵と不可侵条約を結ぶのである。
そこで平沼騏一郎総理は、「欧州の天地は複雑怪奇」という声明を発して総辞職する。
この「複雑怪奇」のなかからナチスドイツのポーランド侵攻即第二次世界大戦が勃発し、
それは六年後に我が国に二発の原子爆弾を投下した後に終了する。
「戦後」とは、この「複雑怪奇な天地」を「戦前」として生み出された。
「戦前」とは平沼騏一郎総理が警告を発した通りの「複雑怪奇」なことを言う。
そして、この一年間で明確になったのは、
欧州は再び「複雑怪奇」な天地、即ち「戦前」に戻ったということである。
それを明確にしたのは、ロシアのプーチン大統領である。
彼は、武力でクリミヤを併合しウクライナ東部を制圧した。そして、イギリスもフランスもドイツもアメリカもそれを止めることはできない。その結果、欧州では、ロシアのバルト三国への武力侵攻も予想し得る事態となった。
つまり、欧州の天地では、プーチンによって、武力によって国家の勢力圏が変更することが実証された。
これが「戦前」に戻ったということである。
それでは、アジアの天地はどうか。
事態を見つめれば、明らかであろう。アジアの天地も既に「戦前」である。
中共は、ベトナム戦争の終結によってアメリカがベトナムから撤退した直後から南シナ海南西部へ、
さらにフィリピンのスービック基地からアメリカが撤退した直後からは南シナ海中央部へ、
それぞれ武力侵攻して勢力圏を武力で拡張している。
即ち、アジアで次ぎにヨーロッパで、既に勢力圏を武力で拡大させる「戦前」が始まっている。
アジアとヨーロッパが違うのは、アジアの中共は、夜盗や土匪のようにこっそりとやっていたのに対し、
ヨーロッパでは、プーチンのロシアが、白昼、正々堂々としたことである。
以上のように、既に世界は、とりわけ我が国の存在する東アジアは、「戦前」なのだ。
そして、この「戦前」を造りだした夜盗が、
我が国を「戦後」という牢獄にこの先も閉じこめ続けようとして総理大臣の謝罪決議を期待している。
その目的は、戦後体制のままの我が国を、効率よく制圧し勢力圏を拡げることである。
よって、切に願い、何度でも言う。
安倍総理、「戦後」という枠内の「有識者懇談会」と外務省に囚われず、それらを放擲して、
政治家としての知性と本能に基づいて、
「戦後からの脱却宣言」という「戦後七十年総理大臣談話」を発出されたい。