対米戦争はいつ始まったのか?
フィリピンを植民地にした時は、もっと卑怯だった。
フィリピン諸島は16世紀以来スペインに植民地化されていたが、米国はアギナルド将軍に、協力したら独立させると約束し、マニラの戦い (1898年7月25日~8月13日)でフィリピンの独立を援助する名目でスペインを破った。併し、12月10日のパリ条約に於いて、米国は表向き2,000万ドルでフィリピンを購入した。(パリ条約)
米国は、歴史的に「汚い」「信義に悖る」「残虐」な事を散々やってきた。その米国が自国のなしてきた事を総て棚に上げて日本を「侵略国家」とするのが、「戦後世界秩序」である。米国はいつまでも そうしておきたいのだろうが、日本人は何時迄も「戦後世界秩序」「東京裁判史観」に毒され続けている訳にはいかない。
1937年(昭和12年)の日支事変(戦後教育では日清戦争)の2年前に、米国議会は「中立法」を可決した。「中立法」とは元々、1907年のハーグ平和会議で成文化された「中立に関する国際法上の規則」の総称で、中立国は交戦国の攻撃を受けず、その領土を侵される事はないが、交戦国に対して戦争遂行上の便宜・援助を与えてはならない、とするものだ。
そのルーズベルトが米国正規の陸軍航空兵を義勇兵に仕立てる為に、一旦 軍を退役させ、高給で支那に雇わせた。復帰したい者は現役米軍兵と同じ待遇で戻すと約束までしている。これでは現役の米軍が支那に加勢するのと同じではないか。ハーグ平和会議で成文化された「中立に関する国際法上の規則」違反である。
ルーズベルトは1941年(昭和16年)5月(真珠湾攻撃の約半年前)に、150機の爆撃機と乗組員を支那に貸し与え、機体に「青天白日旗」のマークを記し、「東京・横浜・大阪・神戸」を奇襲爆撃する気でいた。勿論、宣戦布告などする気は微塵も無かった。ルーズベルトは側近に軍事顧問団まで派遣するようメモを渡している。その奇襲爆撃隊はフライング タイガーと呼ばれた。
この企ては、対ドイツ戦で劣勢に苦しむ英国のチャーチルを支援する為にご破算になった。「青天白日旗」は大慌てで「英国旗」に塗り替えられた。(何れにせよ「中立法違反」である)これひとつ見ても、真珠湾を攻撃しようがしまいが、日米戦争は始まっていたというのが分かるだろう。
また、同年2月には、ルーズベルトは国務省内に特別調査班 Special Research Division を設置している。コーデル・ハルの補佐官、ハルボルスキーを班長として、国務省員ヒュー・ボートンに、「対日戦勝後の日本の処理を研究」させている。更に「対日講和条約(案)」もつくっていた。これが日本国憲法の原案となる。大東亜戦争 開戦前に「日本国憲法」案はできていたのだ。
ではなぜ米国は、ここまで「大日本帝国」を憎んだのか。それは、1919年のパリ講和会議の国際連盟委員会に於いて、「有色人種である日本人が『人種差別撤廃』を主張」した事。有色人種である大日本帝国が、「米国を始めとした白人宗主国の利権を脅やかしかねないという事を、日露戦争の勝利で見せつけてしまった」事。このふたつに尽きると思う。
更に改めねばならないのが「日米安保 盲信者」である事を付け加えたい。フィリピンの再 植民地化を例にあげるまでもなく、米国は有色人種相手に、いとも簡単に嘘をつくし、然も残虐な事を平気で為す。アメリカ インディアンも散々白人に騙され、最後には殲滅されてしまった。
今の日本の防衛体制は、殆んど単独での作戦を想定していない。大部分は米軍との共同作戦が中心である。米国の衰退が進み、内向きになった時、システムで動く近代戦に於いて、今の自衛隊 単独では100%の力を発揮できない。極論すれば、米国の都合でいつでも丸裸で、いや、薄着で放り出されるという事である。