舩坂 弘氏
ウキィペディアからの転載です。
![イメージ 1](https://cdn-ak.f.st-hatena.com/images/fotolife/P/Parramatta/20190813/20190813215855.jpg)
第219部隊伍長だった頃の舩坂弘
| |
生きている英霊、不死身の分隊長 | |
1920年10月30日 栃木県 | |
2006年2月11日(満85歳没) | |
http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/0/06/War_flag_of_the_Imperial_Japanese_Army.svg/20px-War_flag_of_the_Imperial_Japanese_Army.svg.png 大日本帝国陸軍 | |
1941年 - 1944年 | |
陸軍軍曹 | |
実業家、大盛堂書店代表取締役社長、南太平洋慰霊協会理事、大盛堂道場館主 |
生い立ち
陸軍に入隊
アンガウルの戦い
瀕死の重傷を負いながらも弘は足を包帯代わりの日章旗で縛ることで止血し、夜通し這うことで洞窟陣地に帰り着き、翌日には左足を引き摺りながらも歩けるまでに回復した。その後も瀕死クラスの傷を何度も負うも、動くことすらままならないと思われるような傷でも、不思議と翌日には回復しているのが常であった。 これについて弘は「生まれつき傷が治りやすい体質であったことに助けられたようだ」と、その事由を述べている。
戦友も次々と倒れ部隊も壊滅するに及び、弘は死ぬ前にせめて敵将に一矢報いんと米軍司令部への単身斬り込み、肉弾自爆を決意する。手榴弾6発を身体にくくりつけ、拳銃1丁を持って数夜這い続けることにより、前哨陣地を突破し、4日目には米軍指揮所テント群に20メートルの地点にまで潜入していた。この時までに、負傷は戦闘初日から数えて大小24箇所に及んでおり、このうち重傷は左大腿部裂傷、左上膊部貫通銃創2箇所、頭部打撲傷、左腹部盲貫銃創の5箇所であり、さらに右肩捻挫、右足首脱臼を負っていた。また、長い間匍匐していたため、肘や足は服が擦り切れてボロボロになっており、さらに連日の戦闘による火傷と全身20箇所に食い込んだ砲弾の破片によって、さながら幽鬼か亡霊のようであったという。
弘は米軍指揮官らが指揮所テントに集合する時に突入すると決めていた。当時、米軍指揮所周辺には歩兵6個大隊、戦車1個大隊、砲兵6個中隊や高射機関砲大隊など総勢1万人が駐屯しており、舩坂はこれら指揮官が指揮所テントに集まる時を狙い、待ち構えていたのである。弘はジープが続々と司令部に乗り付けるのを見、右手に手榴弾の安全栓を抜いて握り締め、左手に拳銃を持ち、全力を絞り出し、立ち上がった。突然、茂みから姿を現した異様な風体の日本兵に、発見した米兵もしばし呆然として声も出なかったという。
米軍の動揺を尻目に弘は司令部目掛け渾身の力で突進するも、手榴弾の信管を叩こうとした瞬間、頸部を撃たれて昏倒し、戦死と判断される。駆けつけた米軍軍医は、無駄だと思いつつも舩坂を野戦病院に運んだ。このとき、軍医は手榴弾と拳銃を握り締めたままの指を一本一本解きほぐしながら、米兵の観衆に向かって、「これがハラキリだ。日本のサムライだけができる勇敢な死に方だ」と語っている[6]。しかし、弘は3日後米軍野戦病院で蘇生する。当初弘は情をかけられたと勘違いし、周囲の医療器具を叩き壊し、急いで駆けつけたMPの銃口に自分の身体を押し付け「撃て!殺せ!早く殺すんだ!」と暴れ回った。この奇妙な日本兵の話はアンガウルの米兵の間で瞬く間に話題となり、伝説と化した。弘の無謀な計画に恐れをなしながらも、大半はその勇気を称え、「勇敢なる兵士」の名を贈ったという。元アンガウル島米軍兵であったマサチューセッツ大学教授のロバート・E・テイラーは、戦後舩坂宛ての手紙の中で、「あなたのあの時の勇敢な行動を私たちは忘れられません。あなたのような人がいるということは、日本人全体の誇りとして残ることです」と、讃辞の言葉を送っている。
その後、数日の捕虜訊問を経て、弘はペリリュー島の捕虜収容所に身柄を移される。このとき既に「勇敢な兵士」の伝説はペリリュー島にまで伝わっており、米軍側は特に“グンソー・フクダ(弘は所属が判らぬよう福田という偽名を使っていた)”の言動には注意しろと、要注意人物の筆頭にその名を挙げるほどになっていた。しかし孚虜となっても弘の闘志は衰えず、ペリリューに身柄を移されて2日目には、瀕死の重傷と思われていたことで監視が甘く、収容所から抜け出すことに成功。1000メートルを潜んで行って日本兵の遺体に辿りつき、弾丸入れから抜き取った小銃弾の火薬によって、米軍弾薬庫の爆破に成功している[7][8]。さらに、弘は2回にわたって飛行場を炎上させることを計画するが、同収容所で勤務していたF.V.クレンショー伍長(F.V.CRENSHAW 、生没年不詳)に阻止され失敗。グアム、ハワイ、サンフランシスコ、テキサス、と終戦まで収容所を転々と移動し、1946年に帰国する。
帰国
大盛堂書店を開業
剣道家として
慰霊碑を建立
弘は『英霊の絶叫』のあとがきに、アンガウル島に鎮魂の慰霊碑を建立することが自らの生涯を賭けた使命と記した。これは後に同書を読んだ人々からの義援金の助力もあって実現し、以後、戦記を書いてはその印税を投じ、ペリリュー、ガドブス、コロール、グアム等の島々にも、次々と慰霊碑を建立した。慰霊碑の慰文には、「尊い平和の礎のため、勇敢に戦った守備隊将兵の冥福を祈り、永久に其の功績を伝承し、感謝と敬仰の誠を此処に捧げます」と、刻み込まれている。慰霊碑を建立後、今までの著作や後に執筆した本から更なる印税を得るも、「世界の人々に役立ててもらいたい」との考えから、自分では使うことなく、全額を国際赤十字社に寄付している。