清水のおやっさんとおばちゃん



フキの唄

現在、国宝姫路城の「平成の大修理」が行われていますが、先の「昭和の大修理」は昭和35年ごろだったと記憶しています。
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昭和の大修理中の姫路城です。

この当時、私は姫路城から数百メートルのところに住んでおり、小学校4年までをこの地域で過ごしました。
フキの唄の歌詞にもあるように、このころの日本はまだまだ貧しく、近所同士で助け合って生活していたものです。
もっとも、当時は私も子供なので、実際の苦労や貧しさのほとんどは親が背負ってくれていたわけですが・・・
家の前の道路は普段は子供の遊び場になっており、アスファルトに蝋石で落書きしたり、ケンパ遊びをしたり・・・
車が来ればどけば良いみたいな感じで、今では考えられないほどのどかなものでした。
通りに面して「天龍」というお好み焼きやうどんを出す店があり、日の暮れるころには仕事を終えた近所のおっさんや父親たちが一杯やっており、表の道路で遊んでる子供たちも店内に呼び入れられておでんやかき氷にありつけるわけです。
私が住んでた家は、木造の二階建てが10軒ほど連なったような形で、我が家は東の端でした。
西の端に清水さんという家があり、ここの千代ちゃんは私より四つ上のお姉ちゃんで、お互いの家を我が家のごとく行き来して、まるで兄弟のようにして育ち、まさに家族ぐるみの付き合いでした。まさに映画「三丁目の夕日」の世界ですね。
前置きが長くなりましたが、その清水さんちの親父さんとおばちゃんが今回のタイトルの「清水のおやっさんとおばちゃん」です。
なにぶん50年近く前の話なので、私自身の当時の記憶と、後に人から聞いた話などを合わせて編集した記憶ですから多少の間違いはあるかもしれませんがそこんとこはご容赦を。

清水さんちは店舗を兼ねた自宅で関西で言うところの煮売り屋、要するに惣菜店を営んでおり、おやっさんは毎日ごっつい運搬用自転車で市場に仕入れに行っておりました。
また自分で天然ウナギを捕ってきて、それを炭火で蒲焼にして販売もしており、恐らく私が初めて食べたウナギはこれであったと思います。
おやっさんは元は相撲取り、地元では顔役的な存在、でも顔役と言っても決してこわもてタイプではなく、気は優しくて力持ちを絵に描いたような人で、人情に厚く男気にあふれた人でした。
清水家の家族構成は、おやっさん夫婦と千代ちゃんとその上にお兄ちゃんが二人。
一番上が源次兄ちゃんで、大工の職に就きその当時すでに結婚して、清水家の裏庭に小屋以上家以下の建物を建てて住んでおりました。
おやっさんは当時で60歳を超えてたので、千代ちゃんはずいぶん遅い子供ということになります。

ここからは後に人から聞いた話です。
戦前から戦後すぐにかけての話なのですが、町内に女癖の悪い散髪屋のおっさんがいまして、そのおっさんがよその女に子供を産ませてしもたんです。
で、この女が押しかけてきて赤ん坊を散髪屋に置いていきよったんです。
散髪屋の奥さんは半狂乱になり、おっさんは赤ん坊といっしょに家を追い出されそうになり、町内を巻き込んでの大騒ぎヽ(^o^)丿
それを見かねた清水のおやっさんが、「うちは子供がおらんから、うちで引き取って育てるがな」ということになり、赤ん坊は晴れて清水家の養子となりました。
この赤ん坊が源次兄ちゃんです。
その後、また別のところから両親を亡くした女の子も引き取り、清水夫婦は二人の子持ちとなりました。
けっして経済的に恵まれた環境でもなく、夫婦で必死で働きながら二人の子供を育てていた矢先、あろうことか、おばちゃんが病気で急死してしまったのです。
さて、大変なのはおやっさんです、仕事をしながら二人の子供を育てなあきません・・・
そこで登場するのが急死したおばちゃんの妹です。
「義兄さん、子供二人残して姉ちゃんが死んでもうて大変やな~ もし義兄さんさえ良けりゃ私を後妻にしてえな。 子供は私が面倒見るがな」
てなわけで、先妻の妹さんが後妻になり、子育てと店の切り盛りを引き継ぐことに・・・\(◎o◎)/!
そして、この後妻さんとの間に生まれたのが、千代ちゃんとその上のお兄ちゃんです。
私が実際に面識があり、そして可愛がってもらったのがこの後妻さんなんですが、このような事実を知ったのは近年になってからです。
清水のおやっさんと二人のおばちゃん、この3人の考えや行動には「打算」などは皆無で、正に人情と優しさの塊のような生き方です。
普通なら養育費や教育費など、あれこれ数字が脳裏をよぎって当然ですし、まして食糧難の時代でもありました。
それを意に介さず、二人の子供を受け入れたおやっさんと二人のおばちゃん、自分たちは何一つ贅沢をせず、4人の子供を立派に育て上げました。
日本が今よりもずっとずっと貧しかった時代、私はその後半部分を体験しているのですが、あの時代にこんなにも心の豊かな人がすぐ近所に住んでいたこと、そして家族ぐるみの付き合いが出来たことは私にとって実に幸せであったと思います。
現在の日本は様々な問題を抱えていますが、昭和のあのころを思い出し「足るを知る」ことで解決することもあるのではと考えています。